ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
最近、金の値段が大変高騰しているそうです。いざというときでも、金だけは価値を失わないと信じられているからです。ところで、金はなぜ価値があるんでしょうか。一言で言うと、珍しくて、美しくて、変わらないものだからです。珍しいっていうのは、わずかしか採れないものなんですね。希少価値があるということです。美しいっていうのは、理屈抜きに輝く金属だからです。そして変わらないとは、錆びない金属だからなんですね。ほとんどの金属は放っておくと酸化するんです。しかし金は時間がたっても錆びることがありません。いつまでも変わらずに存在し続けるのです。だからこそ、世界中の人々は金を手に入れようとするんですね。ところで聖書の中には、金よりもすぐれた宝を三つ紹介している箇所があるんです。
聖書はこう言います。
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
神は、私たちにさまざまな素晴らしいものを与えてくださいました。この宇宙も、自然も、太陽も、そして若さや健康や能力も、素晴らしい神様からの賜物です。しかしどんなに素晴らしい神からの賜物も、いつまでも残るものばかりではないんですね。若さも、いつかは老いていきます。健康体も、やがては病に打ち勝つことができません。能力だって、年とともに衰えてゆくのではありませんか。しかし人がどんなに老い、病み、弱り果て、死を目の前にしてもそれでも変わらない、最後まで残る神からの宝が三つあるんです。
信仰
第一は、信仰です。人が歩けなくなって、また見えなくなっても、また聞こえなくなっても、信頼することだけは心の中でできることです。そして私たちを造られた全知全能の神への信頼は、私たちを最期の瞬間まで支える力となるのです。
ところで、一年の中でもっとも昼の時間が短い日を、冬至といいますね。12月22日ごろがこの日になります。この冬至を越えると、毎日、日照時間が長くなっていくんです。ところが気温の方は、1月、2月とますます下がり続けるんですね。太陽から受ける熱エネルギーは確実に増えているのに、気温がぐんぐん下がるのには理由があります。空気は熱しにくく冷めにくいからなんですね。エネルギーを受けながら実際に暖まるためには、時間がかかるんですね。なので、本当は日ごとにエネルギーを受けていながら、実感としてはエネルギーが減っていってるように感じてしまうんです。しかし事実は、どんどん寒くなってゆくときに、地球を暖める力がいよいよ働いているんですね。実感と実態は違うのです。
人生が下り坂になり、体力が衰え、八方ふさがりに落ちてゆくように見えるとき、見える事柄だけで人生の判断をしてしまうなら、もはやお仕舞い、という気分になってしまいます。しかし、ますます弱り、ますます衰え、いっそう無力になってゆくとき、人には気づかれないように神が働いてくださっているのだ、と信じることができる人は支えられるのです。最善しか行われることのない神を信じる人は、たとい自分の人生の中に悪が行われ、喪失を経験し、ダメージを被ることがあったとしても、神はこのままにしておかれるはずがない、と信じるがゆえに打ち倒されることがないのです。かえって自分が何もできないときこそ、神が代わりに働いてくださると信じ、平安を取り戻すのです。神への信頼は、絶体絶命のところにいる人を支えるんですね。
愛
第二に、いつまでも残るものは神の愛です。神様は、人が何にも貢献できなくなったときでも、決して見限ったりすることがない方なのです。どうしてそんなことを断言できるんでしょう。私たちがまだ罪人であったとき、人となった神であるキリストが、あの十字架にかかって私たちの代わりに罪の償いをしてくださったことによってです。
テネバ・ジョーダンという人はこう言いました。「母親とは、5人いるのに4切れしかパイがないのを見ると、即座に『パイは好きじゃないの』という人のことだ」と。そう言われた幼い子どもは思うんですね。「こんなおいしいものをキライだなんて、ママってへんなひとだなあ」しかし少し成長すると、譲ってくれたんだということに気がつきます。それでもあんまり気に留めないんですね。しかし社会に出て、世の荒波にもまれ、譲られる経験がほとんどなくなってくると、そのありがたさがわかってくるのです。そして母さんが譲ってくれたのは実はパイだけではなく、時間や体力や人生そのものだったのだとわかり、自分にはとてもまねできないなあと思うのです。しかし自分も親になったとき、同じことをいつしか口にするようになり、そこで初めて気がつくんです。実はお母さんにとって最高のパイとは、譲られたパイをほおばる子どもの笑顔だったのだということを。お母さんは我慢しながら犠牲を払ったのではなく、喜びながら犠牲を払っていてくれたのだと気がつくのです。
キリストはご自分のいのちを捨てて、あなたの罪の償いを果たしてくださいました。しかしそれは、我慢しながらのことではなかったのです。あなたを幸せにすることをこの上もない喜びと思って、あの十字架の上で死んでくださったのです。そしてここにこそ、神の愛が現されているのです。
希望
第三に、いつまでも残るものは希望です。この希望は、キリストにかかっている希望なのです。十字架の上で死んだけれども、三日目に死を打ち砕いて復活したキリストは、最悪を最善に転換する希望の神なのです。農夫が汗水たらして大地を耕し、種まく重労働をいとわずにするのは、いったいなぜでしょう。季節が来れば収穫できるという希望があるからです。希望がなかったらそんなことはしません。受験生がフラフラになりながら、なおも睡眠時間を削って勉強するのはなぜでしょう。したことが報われ、晴れて合格できるという希望があるからです。希望がなければそんなことはしません。難病の患者が、まるで拷問のようなつらい治療を、自ら進んで受けていかれるのはなぜなんでしょう。それを受ければ治るという希望があるからではありませんか。
希望は人を勇者にするのです。希望は人に冒険させます。そして希望は人に力を与えて、何かに挑戦していくものへと変えていくのです。キリストが与える希望は、復活の希望です。誰でもキリストを信じて受け入れるなら、その人は罪赦され、神の子とせられ、たとえ死んでも天国に大歓迎されるという希望が与えられるのです。そしてそれは、死をものみこむ本物の希望なんですね。
どうぞあなたもイエス・キリストを救い主として受け入れ、神からの信仰、変わらない希望、永遠普遍の愛という変わらない宝で生かされる人生の中に入ってください。心からお勧めしたいと思います。
ノア:いつまでも残るのは
(1コリント13:13)