おはようございます。那須清志です。
今日も聖書が語るグッド・ニュース、福音についてご一緒に考えていきましょう。
世の中には様々な職業があります。そしてその分野を代表する有名人がいます。
野球の世界では、ベーブ・ルース、王貞治。科学の世界では、コペルニクスやニュートン等々。
一般には知られていなくても、その分野の中では有名という人もいます。
神を信じた無神論者
さて哲学の世界で、それも無神論哲学の世界で二十世紀をリードしたアントニー・フルーという人がいました。
この番組でいつも語っている創造主について、そんなもの存在しない、ということを彼は主張してきました。
30冊ほどの本を通じて神の存在を否定し続けていたのです。
ところが晩年になって、その意見を180度変え、世界を創造した神は存在すると言い始めました。
もちろん、彼を信奉する世界中の無神論者たちはたいへん驚き、いろいろな非難を彼に浴びせかけました。
彼の考えが大きく変わったのは、この自然界に対する研究成果を見たからだそうです。
かつて永遠のものと思われていたこの宇宙には始まりがあるということがはっきりわかり、今に至るまで整えられていったのを見ると、何者かがいるに違いないと感じたのです。
私たちの体内のDNAから、広大無辺の宇宙に至るまで、この世界を調べれば調べるほど、すばらしくデザインされている、うまく造られている、偶然にはありえない、と彼は悟ったのでした。
聖書の神と創造主は同一か
聖書に次のようなことばがあります。
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
聖書は被造物、すなわち造られたもの、この宇宙や地球、生き物などを見る時、創造主の力やすばらしさを必ず知ることができる、と断言しているのです。
ところが、問題はこれからです。神を認めたアンソニーでしたが、その神が聖書が語り、クリスチャンが信頼している神と同じかというと、それは認めなかったのです。世界を造られた神とか、神と呼ぶべき存在は認めるが、それが聖書のいう神とは思わない、という人は案外多いのです。
実は聖書自体は神の存在をくどくど説明していません。この世界や私たちを創造した方がおられるというのは、ある意味当然としているのです。
問題はその神が聖書が言っている神と同じものか、ということです。
聖書は神とはどういう方か、について答えを提供しています。
今日はこのすべてを造られた神がどうして聖書の語る神であるといえるのか、を考えていきましょう。
聖書が信頼できるかを確かめる
まず初めに、聖書は信頼できるものというのがその理由です。
普段その情報が本当かどうかを判断するのは、誰が言っているか、どこに書いているか、誰が経験したかなどを根拠にします。
時々、税務署に申告すると税金が戻ってくる、という話を聞きますね。
私も少し調べて、該当したものを申告してみました。するとなんとウン万円も返ってきたではありませんか。
うれしくなって、税務署の人に聞きました「これってもし申告しなければ、返ってこないんですか。」係の人は「そうです。こういったことについては税務署の方から連絡することはありません。」と言っていました。
聞いているだけではだめなのです。自分の場合が条件に合うかどうか調べて、本当とわかれば、申請するのです。
申請しなければ損をするところでした。損得という言い方は好きではありませんが、あえて言うと聖書が語る情報を知り、活用することは得します。
神を知り、それが永遠の祝福につながることが書かれているからです。
ぜひ自分で確かめてみてください。聖書が信頼できるものであることがだんだんわかってきます。
三千年以上、書き換えられることなく存在し続けた聖書に記されているからこそ、本物の神について正しく知ることができるのです。
古今東西にある偉人の業績
第二に、イエス・キリストの存在です。
イエス・キリストは今から二千年前の人ですが、れっきとした歴史上の人物です。というのも一時期、イエスは実在の人物ではない、人が考え出したヒーローだと言われたこともありました。
しかし、今そう主張する人は強い偏見を持っている人か、歴史的根拠を無視し続けている人たちぐらいです。
今、大河ドラマで「西郷隆盛」が取り上げられています。
彼の政治手腕、先見性、統率力や指導力などのすばらしさに加え、人格の良さを物語る多くのエピソードが残されています。
明治維新がなり、西郷隆盛が陸軍大将近衛都督、今の総理大臣の地位に就いていた頃、大八車を押し、坂を上るのに苦労している男を見ました。
西郷は軍服のまま走り寄って、手伝い始めたのです。
お付きの者が「閣下、そんなみっともないこと、やめてください。」と言うと「なんばいよっとか。おまえも手伝え。もう少しでこの坂、のりきらるっど。」と懸命に車を押したというのです。
このように、偉人たちの業績を語るエピソードは古今東西にありますね。
イエスを通して本物の神を知ることができる
西郷さんの人を愛する態度もすばらしいですが、イエスの場合は趣きがかなり異なっています。
イエスが語り、行ったことは常識をはるかに超えています。イエスは全人類の罪を担って、十字架で身代わりの死を遂げたというのです。
神が人の姿をとって、地上に来てくださいました。手助けをした、というどころではなく、いのちをかけて、私たちをさばきから救い出そうとされたのです。
さらに驚くべきことに、死後三日目に墓を突き破ってよみがえり、新しいいのちについて人々に示されました。この十字架と復活は、単なるエピソード、すなわちイエスのすばらしさを際立たせる挿話、といったものではありません。
イエスの生き方の中心で、イエスが特別な人であったことを、すばり現したものです。
この方こそ、神が遣わし、神が認めた本当の救い主であることを証明してくださったのです。
神はイエスを通じて、その愛と義を示されました。
人類はイエスを通して、本物の神がどのような方であるかを知ることができるのです。
信じることで変えられた人々がいる
第三に、この神を信じた人の変わり様です。
この神を信じるというのは、神が人の姿をとったイエスを信じるということです。
神なるイエスを信じ、受け入れた人の変わり様と世界中に与えた影響は計り知れません。
日本に初めてキリスト教をもたらしたと言われるフランシスコ・ザビエル、彼は貴族の出で、両親は教会の仕事に就くことを願い、大都会のパリに彼を送りました。
容姿端麗、音楽の才にも長け、活動的な若者でしたが、快楽主義に陥り、その生活は派手なもので荒廃していました。
しかし、クリスチャンの友人を通して変化が起きました。神の前に悔い改め、イエスを信じたのです。
彼は後に、いのちを顧みず、遠いアジアに神の愛を届けたいという熱情に溢れた者になったのです。
本物に触れた時、人は本当に変えられます。
一時的な変化ではなく、内側から湧き上がる継続的な力です。
本物の神に出会い、神からの力を数えきれない人たちが経験してきました。二千年間、その状況は世界各地で見られています。
この経験はあなたにも起こり得ることです。聖書が語る神こそ、私たちの創造主であり、その神が用意された救い主イエスを信頼する時、人は新しく造り変えられるのです。
ぜひ、この神に出会っていただきたいと思います。心からお勧めいたします。
主が、私たちを造られた。
私たちは主のもの、主の民、
その牧場の羊である。
(詩篇100:3)