#1240 アダムとエバとイエスの涙

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。尼川匡志です。

さて、年末の恒例イベントとして定着しているベートーベンの第九。今年もコンサートホールから地元公民館まで、さまざまな場所で演奏され合唱されていました。なぜ年末は第九なのか、由来には諸説がありますが、喜びをもって一年を閉じたいという思いではないでしょうか。
神がこの世界を創造されたとき、「喜びの園」という場所がありました。エデンの園です。ここはまさに楽園。平和で安全で豊かで、何一つ欠けたものがない場所でした。ここで暮らしていたのがアダムとエバです。神と彼らの間には、守らなければならない一つの約束がありました。それは園の中央にある善悪の知識の木からだけは取って食べてはいけない、というものでした。しかし、彼らは悪魔のささやきに惑わされ、神との約束を破棄し自分の欲望を優先させたのです。このとき、聖書は人間に罪が入ったと語ります。神よりも自分の欲望を優先して、自分を神の位置に置く罪です。その結果、彼らは楽園を追放されることになったんです。今日は「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」という聖書のことばから、二つのことを考えたいと思います。一つ目は、罪の報酬は死、ということです。そして二つ目は、神が私たちに与えたいのは死を突き破る永遠のいのち、ということです。

罪の報酬は死

それでは一つ目を考えたいと思います。話をエデンの園に戻します。神と彼らの約束は「善悪の木から取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」というものでした。しかし、このとき彼らには死の意味が分かりませんでした。見たことも聞いたこともなかったんです。ですから、死の持つ苦しみは当然理解することができなかったんですね。でも、すべてを創造され素晴らしい環境を整えてくださった神が「だめだ」というそのことばは、心に留めておく必要があったんです。十分に分からなくても、そのことは守らなければならなかった。時々「わたしは死んだことがないし、死後のことも分からない。地獄も見たことがない。あるかどうかも分からない」という方がおられます。そのとき、アダムとエバのことを思い出すんですね。分からないから大丈夫だということはないんです。警告は与えられているんですね。
彼らが死の恐怖と悲しみに遭遇するのは、エデンの園を出て行って何年も経った後でした。カインとアベルという二人の男の子が与えられました。あるとき、神へのささげ物のことで兄のカインが弟アベルをねたみ、殺してしまうんです。アダムとエバにとって愛する子どもです。さっきまで笑い、話していたんです。それが声をかけても、ゆすってもピクリともしない。反応がないんです。そのとき、彼らは深い悲しみに沈んだと思います。私たちにとって、愛する者の死はどんなに苦しいでしょうか。死というものの現実を、目の当たりにした瞬間だったんです。アダムとエバ以降、どれだけの人間が生まれ死んでいったことか分かりません。そして、その何倍もの悲しみが、死にゆく人たちの周囲にあったことは間違いないんです。こんなことになるとは、アダムとエバには想像もつかなかったと思います。彼らは、人類で初めて死の悲しみに遭遇し、とめどなく涙を流しました。罪の報酬は死、悲しい現実です。

神は人の苦しみや悲しみに寄り添われる

二つ目のことを考えます。神の賜物は、この死を突き破る永遠のいのちなんです。神はこの世界に人間を生み出されました。この人間が死を迎えるたびに、アダムとエバと同じ悲しみが人間を襲ったんです。神はそれを見て、どのように思われていたのでしょうか。自業自得と思われていたんでしょうか。無関心だったんでしょうか。イエスがこの世界に来られたとき、私たちはこの神の思いを正しく知ることができました。
福音書で、人となったイエスが地上を歩まれる姿を見るとき、悲しむ人痛む人絶望する人に近づき、寄り添い慰めておられる姿が現されています。罪がこの世界に入ったのは、人間の責任です。その結果苦しみや悲しみが入り込んでしまったんです。神がその人間の苦しむ姿を見たとき、無関心ではなかった。心を痛められ、その苦しみから解放したいと願われていたんです。イエスを見ると、そのことがよく分かります。イエスが愛された一つの家族がベタニヤにいました。マルタ、マリヤ、ラザロです。あるとき、ラザロが重い病気にかかり亡くなったんですね。イエスはいませんでした。戻られたとき、ラザロの死からすでに四日が過ぎていました。イエスはラザロを生き返らせるために来られたんです。マルタとマリヤは深い絶望の中で悲しみの涙を流していました。イエスはそれを見られたんです。聖書はこのときのイエスの心を、ひと言で表しています。「イエスは涙を流された。」です。不思議なことばです。今からラザロを生き返らせるんです。マルタとマリヤの悲しみが深ければ深いほど、その悲しみは歓喜に変わるはずです。イエスはよく分かっていました。

死を突き破る永遠のいのち

では、なぜ涙を流す必要があるのでしょうか。それは、死によって人が受ける心の痛みが、どれほどであるのかを味わってくださっていたんです。死を恐れない人はいません。愛する人の死を悼まない人はいません。そして神は、その人間の死を決して喜ばれていないんです。イエスはその後、ラザロを生き返らせました。神がいのちの主権者であって、死が決して終わりでないことを示すためでした。このことは、ただ一つの家族を喜ばせるためだけではなかったんです。すべて、死を悼み悲しむ人々へのメッセージだったんです。マルタに言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」信じる者は永遠のいのちを持ち、死を突き破ることを視覚的にイエスは見せてくださったのです。
アダムとエバの罪によって人間に死が入りました。その罪を自力で取り除くことは人間にはできません。この罪の報酬である死を取り除き、悲しみから解放するため、イエス・キリストは来てくださったんですね。イエスは死の向こうに希望があることをはっきりと示されました。永遠のいのちです。この神からのプレゼントを受け取っていただきたいんです。イエスはあなたの涙を拭い去りたいんです。
この方を信じてください。心からお勧めしたいと思います。


使用CDジャケット
岩渕まこと:父の涙

今日のみことば
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)