#1128 覚悟の人-神の子キリスト

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

昔『ネバーエンディングストーリー』という本を読んだことがあります。一人のいじめられっ子の少年の物語なんですね。友だちがいない彼の慰めは本でした。それで彼は、学校帰りに行きつけの古本屋に立ち寄って物色するのが日常だったんですね。ある時本棚に奇妙なタイトルの本を見つけるのです。『決して読んではいけない本』ですね。まあそう言われたら読みたくなりますね。それで思わず本を取って表紙を開こうとしたその時、古本屋の店主がじーっとこちら側を見てるのが分かるんです。「おじさん、僕は本を読むのが好きなんです。夢中になって読んでると嫌なことを忘れることが出来ますから。」すると店主のおじさんが「でも、読み終えると現実の世界に戻ってしまうだろう。だが、君が今、手にしてる本はそうじゃない。それは、読み始めるとこの世界に戻ってこれなくなる本だ。危険な本なんだ。読んではいけないよ。」「分かりました」と言って少年は本棚に戻すふりをして、そのまま家に持ち帰ってしまうんですね。万引きです。そして、ページを開いて読み始めると不思議な感覚に襲われるんです。どこかで見たようなことが書いてあるんですね。読み進めているうちに分かったことがあります。この初めて読む本の中に、少年が今までたどってきた人生が書いてあるんです。何と読者である彼自身がこの本の登場人物になってるんですね。さらに読んでいくと、この本の真の主人公が「私の名を呼びなさい」と自分に語り掛けてくるんです。
さて、この物語の設定は恐らくバイブルから来たのではないかなと思いました。と言うのは、聖書はまさにそんな書物であるからです。聖書の中には読者の身に覚えのあることがたくさん書かれてあります。そして、この聖書の真の主役であるキリストが、それを読む者の心に訴えてくる、神の言葉の本、それがバイブルなのです。さて、その聖書の中にこのように書いてあります。

しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

ここから三つのポイントでお話ししましょう。

罪の自覚は早いほどいい

第一に、聖書は、私たちはどんなに人の前に取り繕っていても、全ての人は神の前に罪人であると訴えているのです。
ところで、どうしてそんなに気が滅入るようなことを聖書はずけずけと書くんでしょう。ある新聞記者が飛行機に乗ったとき、少し離れたところに大物政治家が座ってるのを発見するんですね。単独取材のチャンスです。しかし、問題が一つあったんです。随分前なんですが、彼の小さなスキャンダルを暴いたことがあったんですね。この政治家から恨みを買ってたんです。「お話伺ってもいいですか」と話しかけると、案の定「前に私のスキャンダルを暴いたのはお前だろう!」と、いかにも不愉快な表情なのです。
さあ、もしあなたがこの記者の立場であるならどのように話しかけますか。彼はこう言ったんです。「私は、あなたが、将来総理大臣になる器の人だと思っています。だからこそ膿は早いうちに出しておくべきだと思ったんです。大物になればなるほど小さなスキャンダルが大げさに取り沙汰されます。しかし、若い時に、一度明るみになったものは過去のものとなり政治的な傷にはなりませんから。」つまり、この記者が彼のスキャンダルを公にしたのは、彼にとってプラスになるからだと言うのです。
聖書が人間の罪というスキャンダルを指摘するのも同じことです。それは、人にとってプラスになります。なぜなら、罪を自覚させられた人には、そこからの救いの必要性に気付くことが出来ていくからです。神は救いを用意しておられるのですから。罪の自覚、罪の気付きは早ければ早いほどいいんですね。

神なのに人となられた

第二に、「神の一人子は、救い主となるために、キリストという人間になってきてくださった」ということを先程の聖書の言葉は語っているのです。
吉岡たすくさんの作品の中に『子どもからのメッセージ』という本があるんです。そこにこんな話が載っていました。父親が出稼ぎでいない中で、父兄参観日が決まるんですね。子どもが「どうすんのー」と心配すると、お母さんが「よかと、お母さんに任しとけ!」と笑うんです。そして、こう続きます。「お母さんが教室に入ってきた。あ、お父さんの帽子をかぶってる。お父さんの茶色のジャンパーだ。首にはタオルを巻いている。私の方を見て笑ってる。よう似合うのーお母さん。お父さんがいなくても、お母さんがお父さんになって来てくれる。」そして最後の一行。「さすが私のお母さん。」
読むだけで胸が熱くなりました。この子のお母さんが、お父さんに変装して教室にまで来てくれたように、キリストは神なのに変装ではなく、正真正銘の人間となってこの世界に生まれ、この世界に来てくださったのです。それは人を愛しておられるからです。この一点だけでも神が人をどんなに愛しておられるかということが分かるのではないでしょうか。

殺されても構わない覚悟

第三に、この方、イエス・キリストは人間の罪を償うために十字架の上で死んでくださったということです。キリストは、人としてこの世にこられた時、人間から歓迎されないと分かっていたにもかかわらず来られたのです。そして、私はここにキリストの覚悟を感じるんですね。
ムツゴロウの愛称で呼ばれる畑正憲さんという作家に、ある方が質問をするんです。「どうしたら、あなたのように、どんな動物ともすぐに仲良くなることが出来るんですか。」すると彼は「手を噛ませることだ」と言うのです。相手が狼でもライオンでも手を噛ませると、こちらが危害を加えるつもりがないということが動物にも分かるって言うんですね。「でも、そんなことをしたら手を食いちぎられるかもしれないではありませんか」と言われた時にムツゴロウさん一言「食いちぎられても本望です。」と答えたんです。「この動物とつながり合えるならば、手を無くてしてもいいと思って近づいてるんだ。そして、そのようなつもりで近づくと、手を食いちぎられることはないのだ」というふうに仰っていました。
キリストは、全くの無防備の人としてこの世にこられたのです。そして、腕どころか十字架にはりつけにされたのです。どんなに愛を示し、真心を尽くしても、最後は殺されても構わないという、その覚悟がキリストにはあったのです。いや、この十字架に架かって、罪人の代わりに死ぬために来られた、それが救い主イエス・キリストなのです。
どうぞ、あなたのために死んでくださった方、死ぬために来てくださった方、いや死んで三日目によみがえり、今も生きてあなたにこの瞬間、語り掛けておられるイエス・キリストを、救い主として信じてください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
吉村美穂:キリストにはかえられません

今日のみことば
しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
(ローマ5:8)