#1127 キリストによる幸福論

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

さて先日、コロナウイルスワクチンでこんなニュースを読みました。打ちたいと思う人みんなが打てるわけではない、というニュースです。ワクチンを打つには、ワクチンクーポンが必要ですね。このワクチンクーポンは住民票の住所に届くことになっています。しかし世の中には、住民票のない人たちもいらっしゃるのです。路上生活者の人たちです。
そこで東京台東区では、前代未聞の試みを実施しました。9月10日から二日間にわたって、日本有数のドヤ街山谷で、打ちたいと言えば全員打てるようにしたというのです。条件はただ一つだけ、台東区でホームレスをしている、ということです。その実態さえあれば、身分証がなくても名前と生年月日を言うだけで受けることができるというのです。ホームレスの75パーセントの人が接種したそうです。台東区長の決断は実に英断だと思いました。

気前の良い方

ところで、聖書の神はもっと気前が良い方です。台東区在住でないとだめ、とかアメリカ在住者に限定するとか、そういう住んでるところに一切の制限をつけることなく、すべての人に最高の祝福を無料で提供しておられるからです。この最高の祝福というのは一体何でしょう。福音です。
聖書に次のようにあります。

ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

今日はここから三つのポイントでお話いたしましょう。

宗教に救いはない

第一に、宗教に救いはない、ということです。
この手紙を書いたペテロという人はユダヤ人でした。ユダヤ人には先祖伝来のユダヤ教という宗教がありました。そしてその宗教は一見聖書を信じているようで、実は神のことばを人間のことばに置き換えているという、戒めの宗教だったのです。人間が人間の宗教心を満足させるために、あっちこっちに決まりを作り、戒律を守れば天国へ行けるというふうに語るんですね。しかしペテロはこれをむなしい生き方だと言ったんです。では、むなしい生き方とは何でしょう。目指すゴールにたどり着かない生き方のことなのです。
今、ありとあらゆるバラエティーに引っ張りだこの落語家に、笑福亭鶴瓶という方がいらっしゃいます。彼は若い頃、勉強ができる人間にむき出しの対抗心を持っていたそうです。そして、京都大学や大阪大学の合格発表に行って、なんとなく落ちていそうな受験生の隣に立って「あった。」と叫び、そのまま友人たちに胴上げしてもらうという悪ふざけをしていたそうです。実に趣味悪いですね。そしてあんまり喜んでいるので、取材に来ていたNHKの記者からインタビューを受けるんですが、その様子が夕方のニュースに何回も流れたそうです。そしてそれを見た親戚から祝電が実家に届き、両親は赤っ恥をかいたというふうにおっしゃっていました。
ところで、どんなにうれしそうにしていても、胴上げされていても、NHKのインタビューを受けていたとしても、むなしいことです。なぜならほんとには合格したわけではないからです。喜んでるふりをしているだけで、喜びの理由なんかないからです。演技だけで、実際の大学という目的地にはつながっていないので、むなしいんですね。
宗教は人間の宗教心は満たしてくれるでしょう。しかし、神の基準は人が献金をしたとか、断食何日間やったとか、どれぐらい長くお祈りしたかとか、そういうことで到達できるような領域ではないのです。

祝福は買えない

第二に、本当の祝福は銀や金などのマネーでは手に入らないということです。
食うや食わずの人にとっては実に大きな意味を持っています。生存するために精一杯という人にとっては本当に
役に立ちますね。しかし人生の意義までも買うことはできないんです。ある方はこんなことを言ってました。「大きな家を金で買うことはできるが、良き家庭を買うことはできない。高級腕時計を金で買うことはできるが、時間そのものを金で買うことはできない。キングサイズのベッドを金で買うことはできるが、安らかな眠りを買うことはできない。薬を金で買うことはできるが、健康を金で買うことはできない。地位や名誉を金で買うことはできるが、尊敬を金で買うことはできない。異性を金で買うことはできるが、愛を金で勝ち取ることはできない。」世の中には金で買えるものと買えないものがあるんです。そして人生に本物の意義を与えるものはみな、お金だけではどうにもならないものばかりなのです。

究極の祝福

第三に、究極の祝福はイエス・キリストのいのちによってもたらされるということなのです。
もし、大きな家に住み、高級腕時計をはめ、キングサイズのベッドで横になり、人もうらやむ地位をもって、自分の思い通りをお金の力で押し通すことができたとしても、その人の中に、その人の人生の中に本物の人間関係やいたわり、尊敬されること、大切に思われること、そういうことを知らないとするならば、生きていても喜びがないのではないでしょうか。人生に意義を与え、人間に目的と使命を与え、あなたの心に喜びを与えてくださる、そんな祝福はすべて神の中にあるのです。そして創造主なる神さまほど、あなたの幸せを真剣に願っている方はいません。神はあなたを祝福したいのです。ところが神と人との間には、罪という断絶があります。この罪が仕切り版となっているため、神の祝福があなたに届かないのです。この罪という遮へい物が取り除かれない限り、人は神が用意してくださっている祝福を手に入れることができないのです。そこで神の方からこの罪という障害物を撤去するために、救い主を送ってくださいました。この救い主こそは、イエス・キリストです。キリストはこの罪をご自分の身に負って十字架にかかり、罪をご自分もろとも処分されました。そしてこの方はその証拠として、死後三日目に復活されたのです。
先ほどの聖書のことばの続きにこのように書いてあります。

あなたがたは、キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者です。ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。

どうぞあなたも、神が遣わされた救い主イエス・キリストを信じ、そして神さまがすでにあなたのために準備しておられる喜ばしい人生の中にぜひお入りください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
松本優香:イエスのもとに

今日のみことば
ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
(1ペテロ1:18-19)