#1080 クリスマス―和解のための救い主

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

ところでみなさんは、あったかいものでも食べたいと思って入ったうどん屋さんで、無茶苦茶にまずいうどんが出てきたらどう思いますか。せっかくの外食が台無しになったと気分を害するのが普通だと思うんです。
ところがテリー伊藤さんという方は、ラッキーだと考えるというんです。しかも、まずければまずいほど、ついてるぞと考えるというんですね。なぜでしょうか。「ものすごくまずいうどん屋を見つけたんだけど、食べてみない。と友達を誘えるからだっていうんですね。
まあ、友達は「そんなにまずいの。」「ん、この世のものとは思えないほどのまずさで、もう一生忘れられないかもしれないぞ。」「そんなに桁外れにまずいんだったら、一回食べてみたいな。」とネタになるっていうんですね。
ま、彼にとって食事の第一目的は、料理の良し悪しもさることながら、友達と楽しい時間を過ごすことにあるというのです。もちろん、おいしい食事で楽しい時間を過ごすことができるならば、それがベストです。
しかし、ほんとの友達とはおいしい料理の時も、残念な料理の時でも、そういう経験を一緒に楽しめるということが一番肝心なことだと考えているんだそうです。

クリスマスはキリストが来られた記念

さて、聖書を見ると私たち人間を造ってくださった創造主なる神さまは、私たちがいい時も、また悪い時も、人と共に歩いてくださる方です。あなたが喜ぶ時に一緒に喜び、あなたが嘆く時に一緒に嘆いてくださる方です。つまりあなたの人生を共有する神なのです。
神は人間を神の喜びのために造ってくださいました。そして人間は、神を喜ぶために造られたのです。もし神を実在する方として共に歩むことを心得ているなら、人生の苦しいことも楽しいことももっと違った味わいになることでしょう。
さて、今日はクリスマスについてご一緒に考えてみましょう。
クリスマスというのはキリストがこの世に来られたことを記念することです。いわば、キリスト到来祭りなんですね。これが今や世界最大のお祭りになっています。なぜイエス・キリストの降誕が世界的スケールでお祝いするほどのことになってるんでしょう。
聖書の中にこのように書いてあります。

神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。

ここから二つのポイントでお話しましょう。

神との和解が必要

第一に、私たちは神との和解を必要としている者だということです。
多くの人は、神と共に歩むなんて聞いてもピンとこないのではないでしょうか。というのは日常生活で神について考えるなどということは、ほとんどないからです。
神などいないという人生観で生きていると神を意識しませんので、神のことは考えません。神さまを完全無視して生きているんですね。聖書はこの創造主への拒絶姿勢を、罪と語っているのです。というのは、創造主はこの宇宙の作者にしてオーナーであるからです。
オーナーの造った世界に、オーナーの造ったものを使い放題で使って、しかもそのオーナーを拒絶するというのは、オーナーに対する反逆なのです。つまり人間はこの全世界のオーナーと、和解する必要があるのです。

パプアニューギニアのサウイ族

第二に、この和解を神はキリストによってもたらしてくださったということです。
今から六十年ほど前、カナダの宣教師ドン・リチャードソン夫妻がパプアニューギニアのイリアンジャワというところに入りました。そこでサウイ族の村に入り、キリストの福音を伝えたのです。ところが、いっくら聖書の話をしても、全く通じないんですね。
それどころか、金に目がくらんでイエス・キリストを裏切ったイスカリオテ・ユダの話をした時、何と彼らは興奮状態になり、立ち上がって手を打ちながら、ユダをほめたたえたというのです。
実はこの部族のモラルは、現代社会と正反対のものであったのです。人生で一番優れたことは、いかにして相手を鮮やかに欺いて裏切るか、という価値観で生きていたのです。そんな人生観の人々にとって、他人の身代わりになって十字架で死んだキリストは、単なるおバカさんでしかありませんでした。

和解の子

ところで、裏切りを最高の美徳として生きていたら、結局どんなことになるでしょう。裏切りの競い合いが始まるのです。
しかし、裏切られた方は裏切り返しますね。こうしてこの部族で村同士が抗争を始め、それが何年間も何年間も続いたのです。やがて双方の村とも被害が大きくなり、このままでは別の部族の襲撃を心配しなければならないほど、人口が減ったのです。戦いに疲れ果てた彼らは、とうとう和解するのです。
しかしその和解が罠ではないという証拠はどこにあるのでしょう。実は例外的に、正真正銘の契約の結び方が、この部族にはあったのです。それは、タロップティムという習慣でした。訳すと、和解の子という意味です。
争っている二つの部族の中から、生まれたばかりの赤ちゃんを双方の族長に渡して交換するんですね。その子どもが生きている間は、争いはしないという契約なのです。もし裏切れば、相手方に行った自分たちの赤ちゃんが殺されてしまいます。それでこの儀式をもって取り交わす和解だけは、裏も表もない本物の和解なのです。

ひとり子が十字架につけられた

ドン・リチャードソンはこの習慣に目を留めたのです。そしてこの習慣を用いて、神がしてくださったことを伝えたのです。すなわち神は、私たちと和解するためにご自分のひとり子イエス・キリストをこの世に渡され、そして十字架の上でさばいてくださったのです。実はこの儀式で、戦いが終わることをみんなで喜ぶんです。一種の興奮状態、パーティーのようなことをするんですが、その大喜びの宴会の中で、例外的に涙が止まらない人がいます。それはその和解のためにわが子を手放す、母親です。お腹を痛めて産んだ子、育ててきた子ども、自分たちを攻撃していた人々の手に、その愛する子が渡るのです。別れの時には胸が張り裂けんばかりになっているんですね。
そのように神は、ご自分のひとり子をこの世に送って、十字架の上でさばいてくださったのです。そしてこのひとり子イエス・キリストは死後三日目に、よみがえられたのです。
クリスマスは神が人の救いのために、イエス・キリストをこの世に送られたことを思い起こす機会です。あなたの救いのために神はこのことを、成し遂げたのです。どうぞこのイエス・キリストをご自分の救い主として、信じ受け入れてください。心からお勧めします。


使用CDジャケット
大和田広美:ああ愛されて

今日のみことば
神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
(2コリ5:18)