#1198 永遠のいのちとは

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

昔、とんちで有名な一休さんのところに一人の男がやってきました。孫が生まれたのでお祝いの言葉を書いてほしいというのです。一休さんはなんと書いたのでしょう。「親死ぬ、子死ぬ、孫死ぬ」書いてもらった男は憤慨します。縁起でもないことを書かないでと言うわけですね。しかし一休さんは「親が死に、次に子どもが死に、それから孫が死ぬというのはめでたいことだ。なぜなら逆の場合を考えてごらん。まず孫が死に、悲嘆に暮れる子どもが次に死んで、最後に年長者が一人残されたらもっと辛かろう。人は皆死ぬ。順番が違うだけだ」と教えたというのです。私は初めてこの話を聞いた時、なるほどなとは思ったものの、私にとっての死の問題の解決にはならないと思いました。要するに、死ぬんだから諦めろという教えであるからです。しかしのちにキリストのことばを聞いて、私は死に対する解決があるということを知ったのです。キリストが父なる神に向かって祈られた祈りの中に、次のようなことばがあります。

永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。

ここから、死に打ち勝つ永遠のいのちについて、3つのポイントでお話しましょう。

唯一まことの神を知ること

第1に永遠のいのちとは、唯一のまことの神を知ることです。自分なりの宗教ではなく、自分を造ってくださった唯一の創造主なる神を信じることです。すべてのものを造り、何もかもご存じで、どんなことでもできる唯一の神を信じることなのです。ところで人は一生涯、生身の本当の自分の顔を見ることができない生き物なんですね。鏡や写真に写した自分を見ることはできます。しかし生の自分を見ることは一生不可能なのです。だからこそ鏡の前に立ったり、カメラの前に立って写してもらうんですね。外見は鏡の前に立つことで見ることができる。では、私の内面は誰の前に立つことによって見ることができるんでしょう。パーフェクトな存在の前に立つことによって、自分自身の限界を知ることができるんです。今から80年ほど昔、昭和の今武蔵、と呼ばれた剣術の達人がいました。国井善弥という達人です。終戦直後、GHQからアメリカ海兵隊の銃剣術の教官と日本の武道家との試合の申し出があったのです。日本武道の誇りと名誉がかかった一戦です。この海兵隊の教官は、素手で戦う格闘術を訓練されていました。ですから剣術だけではなく、素手の戦いでも強いということが条件だったのです。そこで選ばれたのが、国井善弥だったのです。試合が開始されるや否や、国井は相手の攻撃を見切って、木刀で相手を制し、全く身動きの取れない状態へと持ち込みました。圧倒的な実力差を見せつけたのです。ところでこの国井氏は若い頃、新陰流免許皆伝の佐々木正之進という名人のもとで修行していたのです。ところが入門したものの、毎日毎日身の回りの世話をさせられるばっかりで少しも剣術を教えてくれないんですね。こんなことやってられないと思って、ある晩、師匠が休むのを見届けてからこっそり脱走したのです。ところがもう出ようとしたそのとき、彼の前に師匠が立ち塞がっていたというのです。師匠は彼を道場に連れて行きました。そして床に白い線を引いてその上に立ち、自分自身は目隠しをしてこう言ったそうです。「思いっきり打ちかかってこい」。国井が打ちかかると、いつのまにか国井の後ろにまわっていて、しかも白い線の上に立っているというのです。まるで手品のようなことでした。そのとき師匠がこう言ったそうです。「お前は毎日手伝いばかりさせられていると思っていただろう。だがそれは違う。剣術とは、一言で言うと相手がどう出るかを前もって知って、それに対応する術のことなのだ。つまり、洞察力のことだ。私のことをよく見ていたら、私が次に何をするのかどう動くのか、何を求めているのかが読めるようになる。そのための訓練をしていたのだ」。あまりにも凄すぎる達人の前に立つ時、彼は自分の未熟さを恥じ入ったというのです。何故完全なる神を知ることが大切なのでしょう。すべてを見通している神の前に立って、初めて人は自分が弁解の余地のない罪人であるということを自覚できるようになるからです。永遠のいのちへの第一歩、それは自分が神の前に罪人であるということを認めるということなのです。

キリストを信じること

第2に、神から遣わされたイエス・キリストを信じることです。イエスという名前は、ヘブライ語ではイェシュアと言います。その意味は神は救いという意味です。そしてキリストとは、救い主という意味なのです。イエス・キリストとは神は救いという名の救い主である。そういう意味です。もし人が自分の罪を知らずにいたら、神を信じる必要性が分かりません。しかし、もし人が罪を知ったうえで救い主を知らなければ、絶望のあまり滅びてしまうことでしょう。神は私たちに罪を分からせてくださるだけではなく、罪とその結果から私たちを救うために、イエス・キリストを遣わしてくださったのです。どんな人でも神の前に立つ時、神に調べられても大丈夫ですよと、胸を張れるような人はいません。ところがキリストは神の前に立って、どこにも罪がないと言い切ることができる唯一の方でした。何故ならキリストは、人となった神のひとり子であられたからです。キリストは何一つ罪がないというだけではなく、良いことしかなさらなかったからです。そのイエス・キリストは当時の指導者たちの妬みを買って、十字架処刑の判決を受けられたのです。本来ならば怒りに目が眩むことでしょう。しかしイエス・キリストは十字架に釘付けられ、両手両足を引き裂かれながら、罪人に代わって赦しを神に祈ってくださったのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分でしていることが分からないのです」と、とりなしてくださったのです。彼らがしていることがいかに恐るべき罪であるか、それはキリストが一番よく分かっておられました。しかしキリストは何一つ神にそれらを告発することなく、人の罪を背負ったいけにえとしてご自分を神に献げられたのです。そしてその十字架の死ののち3日目にキリストは復活されました。あなたの罪の赦しのために必要なすべてを成し遂げられた方こそ、イエス・キリストなのです。

神とキリストを受け入れること

第3に、永遠のいのちとは、この唯一の創造主である神と、神が遣わされたイエス・キリストを自分の中に受け入れることなのです。「神よ、どうぞ私の救いとなってください」と祈ることです。「私は神と神が遣わしたイエス・キリストを信頼します」と告白することです。もしそのようになさるなら、キリストはあなたの救い主となり、あなたはキリストによる救いを受けとった者とみなされるのです。ぜひイエス・キリストをご自分の救い主として信じてください。心からおすすめします。


使用CDジャケット
大和田広美:永遠の約束

今日のみことば
永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。
(ヨハネ17:3)