#1197 聖書的終活のススメ

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

ところであなたは「しゅうかつ」ということばを聞くと、何を思い浮かべますか?もしあなたが20代30代なら、就職活動としての「しゅうかつ」をイメージなさるでしょう。しかし、もしあなたが高齢者であられるなら、人生の店じまいのための活動の方をイメージなさるのではないでしょうか。そして近年、日本では後者の意味での「しゅうかつ」がとても注目されているのです。具体的には残される家族が困らないために、生きているうちから身の回りの物の整理をしたり、財産の整理をしたり、葬儀やお墓の準備をしたりすることです。そういうことも確かに大切なことだと思います。しかしもっと大切な聖書的終活について今日はお話ししたいのです。
 それは残されていく家族のためというより、自分自身のための終活です。聖書の中に死を目の前にした、パウロというクリスチャンのことばが残されています。読んでみましょう。
 

私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。

 ここから三つのポイントで人生の総決算についてお話いたしましょう。

神はあなたを助けてくださる

 第一に、人生をふり返って、神が助けてくださったことを思い返すことです。これが終活の第一歩です。パウロは、勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通したと自分の人生を振り返っています。やり切った、っていうんですよね。そのように、晩年すべきことは自分の人生をふり返って、そして良き意味を読み取って行くことです。私たちは人生を生きてきましたが、生きるのに精一杯だったので、経験してきたことの意味について考える余裕は、あんまりなかったかもしれないんですね。しかし人生の活動のステージから身を引いて、客観的に思い返してみると、実にたくさんの目に見えない助けがあったということに気づくように思うのです。
私は小学校低学年のときに、運動会が嫌いでしたね。走るのが速くなかったんです。どんなに全力で走っても、4位とか5位とか。なんとか一つでも順位を上げたいと思って、私は運動会が近づくと自主トレーニングしたものです。そしてとうとう運動会の当日、本番で私は走っている最中に靴が脱げてしまい、それを拾っているうちに最下位でゴールインしたのでした。終わってから悔しくて、ひとりでに涙があふれてきたことを覚えています。それから約30年後、私は自分の子どもたちの運動会を見に行きました。三人とも小学生です。みんな親が見てるので必死なんですね。わたしはスタート地点の近くで、見ていました。ある少年が、ゴール寸前で靴が脱げて転んでしまったんですね。一番になって注目されるのは気持ちがいいんですが、失敗して注目されるのは本当に恥ずかしいです。案の定、この少年は半べそをかいてゴールしました。しかしその子がゴールしたとき、観客席の中から温かい拍手が沸き起こっていました。私はそれを見ながら思いました、私が半べそをかいて走っていたときも、きっと励ましの拍手があったんじゃないだろうか。そのときは自分のことで精一杯で、周りが見えなかったので気づきはしませんでした。そしてこの失敗を、人生の一大事のように感じていたのです。
ところが大人になると、そんなのは小さいことだと分かります。そして子どものころには見えていなかった、周りの応援の拍手に気づくのです。私の人生の中で、全力で走ってるのにつまずいたり、邪魔されたり、ひっくり返ったりして、ま、そう言うことばかりにフォーカスしてしまいがちです。そういうふうにしますと、実は私たちを支える人たちがいたにもかかわらず、その人たちの姿が見えなくなります。悪いことばかりではなく、悪いことの中にきらりと光る援助者がもしかしたら、いやいや必ずやいたのではありませんか。そしてそういう援助者を送って助けてくださった方、それがあなたを造られ、あなたを愛しておられる神なのです。良いことにフォーカスすると、人生は決して捨てたもんじゃないと見えてくるものです。

神が人生を完成させてくださる

第二に、人生を完成させてくださる方に、自分の人生を委ねることです。実はパウロはこの手紙を、テモテという自分の息子のような弟子に対して書いているのです。自分の人生はここで終わることになる。それは病気のせいではありません、彼は、まだまだ生きる気力も体力も能力も十分にあったんです。しかし時の政治権力者であるローマ皇帝によって、信仰の弾圧を受け、死刑が決まり、殉教することになったんです。もし生きるなら、まだまだ活動したことでしょう。しかし政治権力により、無理やり人生を中断されてしまうのです。まだやりたいことはあるのに、それが強制終了させられてしまう、普通でしたら死んでも死にきれない思いではないでしょうか。
ところがここでパウロは、満足と感謝で、自分の人生の終わりを見ているのです。なぜそんなことができたんでしょう。未完成の自分の人生を、完成させてくださるのは全知全能の神だと信じていたからです。つまり自分の人生を大きな円の一つの部分、弧に見たんですね。自分はここで死を迎えてこの世から去るかも知れない、しかし、自分の志を受け継ぐ次世代のテモテを、神が与えてくださったということに感謝しているのです。どんな芸術家も最後の作品は未完成です。モーツアルトの晩年の作品、レクイエムも途中で終わってしまいます。モーツアルト自身が完成する前に、死んでしまったからです。しかし弟子のジュースマイヤー(ジュスマイアー)が完成したんですね。神に人生をまかせる人は、神がその人の人生を完成させてくださるのです。

死の後の世界に目を向ける

第三に、パウロは死んで後に行く世界に、しっかりと目を向けていたことです。私が世を去る時が来ましたと、彼は書きました。この去るということばは、兵士が移動のときにテントをたたんで出発するときに使われることばです。あるいは岸壁につながれていた船が、ロープを解かれて大海へ乗り出すときに使われることばです。パウロにとってこの世の人生は、ある意味で岸辺につながれた制限されたものであったのです。肉体に制限され、体力に制限され、自分の能力の限界の中でしか活動することができない、そういうものです。
しかしこの肉体を脱ぎ捨てた後、彼のいのちは輝かしい天国に羽ばたくことができたのです。つまり死は彼にとって、解放なのです。出発点なのです。あるいは単なる通過点に過ぎないというのです。彼の目の前には、神から賜る義の栄冠がありました。そしてこの栄冠は、主イエスを救い主として信じ、携挙を待望するすべての人に与えられるものなのです。
どうぞあなたも神を信じ、救い主イエス・キリストを信じ、人生の総決算をなさってください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
国分友里恵:いくるかいもなしと

今日のみことば
 私はすでに注ぎのささげ物となっています。私が世を去る時が来ました。
私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。
(2テモテ4:6-8)