#1035 悲しみで終わらない人生

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。尼川匡志です。

2011年の8月3日オーストラリアのシドニー郊外で恐ろしい事件が起こりました。
この日、女子高生のマデレーンさんは自宅で試験勉強をしていました。その時、突然、手にバットを持った男が侵入して来て彼女に「座れ」と命じました。言われるままに座るとその男は彼女の首に黒い箱を自転車用のチェーンで巻き付けたのです。
その箱にはこう書いてありました。『最新型プラスチック爆弾』。
すぐに警察と爆弾処理班が駆けつけました。プロの爆弾処理班でも簡単に解除できるものではありませんでした。彼女の首から爆弾が外されたのはなんと事件発生から10時間後でした。
調べた結果、爆弾は偽物だったんです。しかし、彼女の心が受けた心的外傷は想像を絶するものがありました。
さて、もしあなたがこのマデレーンさんだったらどうでしょうか。
現在、日本人の二人に一人は癌になるそうです。末期癌の場合、余命宣告がなされることがあります。余命3ヶ月とは3ヶ月後に爆発する爆弾が取り付けられているということです。
いや実は、私たちは生まれた時からこの爆弾を誰もが持っています。ただ目には見えないんですね。
余命宣告は爆弾が私たちの目に見える瞬間でもあります。そして、それはこの女性のようにあなたを恐怖の中にたたき込むのです。

ラザロとそのきょうだいたち

さて、聖書の中にラザロというひとりの若者が病気にかかり遂に死ぬという記事が記されています。彼には女きょうだいマルタとマリアがいました。この三兄弟はベタニヤという町に住みイエスととても仲が良かったようです。
ラザロの病気が重篤になった時、マルタとマリアはイエスに使いを送りました。「あなたの愛するものが病気です。」イエスに伝えたメッセージはこの一言でした。
彼らはイエスがとんで帰って来てくださると信じていたんです。しかし、イエスは敢えてその場所に二日とどまりました。その後でベタニヤに戻られたんです。
マルタとマリアはイエスに「あなたがいてくだされば私の兄弟は死ななかったのに」と言いました。イエスは涙を流されたと書いています。そして、墓に納められ四日になる腐敗し始めたラザロの遺体をイエスは蘇生させたのです。

なぜイエスはすぐに向かわなかったか

3つの事を考えます。まず何故その場所になお二日とどまられたのかということです。
マルタとマリアはイエスが病気を治す力があるということはよく知っていました。実際にイエスが病人を治すのを見たことがあったのかもしれません。
だから、この方が戻られれば必ずラザロは治ると確信していました。でもラザロが死に、更に墓に納められ四日が過ぎ腐敗が始まっていました。
しかし、イエスは神です。そして、神には不可能はないのです。この事実をマルタもマリアも彼らの友人も知る必要がありました。
そして、もう一つ理由があるとするなら身近な人の死を通して自分の命と死について真剣に考えるようになるということです。あなたはご自分の死といのちについて立ち止まってお考えになったことがあるでしょうか。
イエスはその時間を与えられたのかもしれません。そのための二日間です。

涙を流された理由

2つ目、イエスが涙を流された理由を考えたいと思います。
イエスはマルタとマリアから使いが来た時、ラザロが既に死んでいた事をご存知でした。ですから、ラザロの死を悼んで涙を流されたのではありません。
更にこの後、イエスご自身がラザロを死から蘇生させるのですから、愛する者の喪失感からの涙でもありません。
では、なぜ涙を流されたのでしょうか。神が人間を造られた時のことを少し考えたいと思います。
神は人間を愛の対象として造られました。その時、人は死ぬものではなく、涙も悲しみも絶望もありませんでした。平和で喜びに溢れた世界に生きていたのです。
しかし、愚かにも人は神との間に罪を持ち込んでしまいました。その結果、いのちの主権者である神と断絶し、死ぬものとなったと聖書は語ります。
神が望まれていたのは人間が悲しみ絶望する世界では決してありませんでした。そんな世界になったことを一番悲しまれたのは神ご自身なんです。
ですから、神はご自身で罪の解決の道を人間のために用意されました。それがイエス・キリストの十字架です。人は死を迎える時、恐怖と悲しみに閉じ込められます。そして、周囲の人たちは愛する人の喪失感で苦しむのです。
今までどれだけの人が苦しんできたのか、そして、これからもそれが続くのです。その事をイエスは見られた時、イエスは涙を流されたのではないか。

よみがえりという奇跡

3つ目は、ラザロの蘇生の奇跡の意味を少し考えたいと思います。マルタとマリアが望んでいたことはラザロの病気が治ることでした。
私たちが求めることは常に目の前にある問題解決です。しかし、イエスが本当に私たちに与えたいものはそうではありません。人生の最後に待っている死の向こうに希望を与えることでした。それは永遠のいのちを与えることでもあるのです。
先日、福岡県の栄光病院のホスピス長である下稲葉さんの本を読みました。そこに末期癌のKさんのことが書かれてありました。
彼女は59歳です。胃癌で全摘手術をした後、再発しました。腫瘍のため腹部が腫れ、水も飲めない状態で入院されてきたそうです。入院三日目に下稲葉さんの歌う賛美歌『忘れないで』とその時語られたイエスは死の力をうち破って復活し、天にあげられ、今も生きておられるのです。この方を信頼しおすがりすれば、人間は死んでも生きるのです。という言葉をKさんはそのまま受け入れ信じられました。
そして、亡くなる前にこう言われたそうです。「先生、私、この病気になって良かったです。」
負け惜しみではありません、ありのままの心を語られたのです。そして、笑顔で天に帰られました。
さて、イエスが十字架にかかられる直前に行われた奇跡がラザロの蘇生です。人間は恐怖の死に向かって生きるためにこの世界に生み出されてのではありません。悲しむために努力をしているのでもないのです。
希望を持ち輝き満ちるために人生はあるのです。この絶望で終わらない人生をイエスはあなたに与えたいのです。是非、この人生にお入りください。心からお勧めします。


使用CDジャケット
ノア:きみの人生

今日のみことば
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」
(ヨハネ11:25)