ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて先日私は、奥井隆さんという方のエッセイを読みました。彼が小学2年生の運動会の時のことです。当時、運動会の昼食は家族ごとに集まってお弁当を食べることになっていました。ところが突然お母さんが「あの子どうして一人で食べてるんだろう」と呟いたんです。お父さんが担任の先生のところに行って聞くと「この子にはお母さんがいない」と言うではありませんか。すると両親はほぼ同時に立ち上がり、その子を連れてきて「一緒に食べよう」って言ったんです。彼女のお弁当は大きなおにぎり一つだけでした。両親は折詰の弁当を真ん中に置いて「遠慮しなくていいんだよ」と声をかけたといいます。そして小学校3年の時にも同じようにしたのです。ところが、奥井さんはそれが恥ずかしくてとっても嫌だったんですね。「どうしてうちの家は家族だけで食べないの?」お母さんは微笑みながら「あの子はね、お母さんがいないから一人で食べなきゃいけないんだよ。可哀想でしょう」それでも小学3年の奥井さんにはあんまり納得することが出来なかったんです。しかし、4年生になったときお母さんは脳溢血で倒れ、そのまま亡くなってしまわれたのでした。それから半年ほど経って運動会があったとき、彼は一人でおばあちゃんの作った弁当を広げたのです。そして食べながら涙が頬をつたい、それまで経験したことがないような惨めさを感じたのでした。そしてその時、1年前のことが浮かんだのです。お父さんとお母さんがあの子を招いて一緒に弁当を食べた事を思い出したというのです。ポロポロと涙をこぼしながらお父さんとお母さんの偉大さがその時になってわかったというのです。素晴らしい人と一緒にいるとき、その素晴らしさに案外気がつかないということがあります。しかしあとになってから、あるいは自分が少し大人になった後で、その素晴らしさに気がつくんですね。イエス・キリストといつも一緒にいた弟子ペテロは、一緒にいた時よりも後になっていっそうイエス・キリストの偉大さに気づくようになります。キリストのことを回想しながら、彼はこのように新約聖書に書いているのです。
キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
今日はここから3つのポイントでお話いたしましょう。
キリストには一切罪がなかった
第1にキリストは一切罪がなく、その口に欺き、嘘、偽りがかけらもなかったということです。キリストの言われたことの中には、聞いたときには信じ難い内容のものがあったんですね。ある時、遠距離からイエス・キリストのもとに来て、家で死にかけている息子の癒やしを頼みこむという人が登場します。しかし、その時イエスはその家に訪問することなく、「癒やされている」と言うのです。確かめるために戻ると、イエスが「癒やされている」と言ったその時間に癒やされていたということがわかるんですね。あるいは十字架処刑の直前、ペテロは「命をかけてあなたをお守りします」と意気込みます。しかしイエスは言いました。「今日鶏が鳴く前にあなたは三度わたしを知らないと言います」自分に限って、そんな裏切り行為をするってことはあり得ないと思っていたペテロですが、その時がくるとその通りのことをしてしまうのです。イエスのことばは全てその通りになりました。つまり、イエスのことばは絶対的に信頼できることばなのです。信頼できる人ってどんな人でしょう。信頼を積み重ねてきた人ではありませんか。イエスのことばは全部実現します。その口に欺きは一つもない方だったというんですね。そんなにも正しく、権威があり、真実な方は死刑にされるはずがないとペテロは考えました。しかしキリストは十字架にかけられたのです。その理由が第2のポイントです。
キリストは罪をその身に負われた
キリストは自ら十字架の上で私たちの罪をその身に負われたのです。『兎の眼』という小説の中に、こんな場面があります。ゴミ処理場の移転に反対して子ども達と一緒にハンガーストライキをしていた足立先生の思い出話をするシーンです。「先生が初めて泥棒した時も、こんなふうに流れ星が流れとった。先生はな、お兄ちゃんと泥棒をしておったんだ。倉庫に行って大豆やとうもろこしを取ってたんや。けど、泥棒は恐ろしい。何回やっても恐ろしい。それで4、5回で先生はやめてしもた。だけど先生のお兄ちゃんは、泥棒をすることが平気やったんや。家には兄弟が七人もおったから、ツバメが餌を運ぶように、兄ちゃんは何回も何回も泥棒をしたんや。そして何回もお巡りさんに捕まった。そしてとうとう少年院に送られることになってしまった。その送られる日、先生のお兄ちゃんは死んだんや。泥棒をして平気な人間なんかおらん。先生は一生後悔するような勘違いをしておったんや。先生はな、お兄ちゃんの命を食べとったんや。先生はお兄ちゃんの命を食べて、大きくなったんや」盗んだ物を食べてる自分にも罪があるのに、お兄ちゃんだけが罪を問われ、その責任に耐えかねて自殺した。その実の兄のことを足立先生は自分と無関係とは考えませんでした。一人の兄に罪を負わせていたことを一生悔やみながら考えていたというのです。キリストは私たちの罪をたった一人で背負ってくださいました。罪は犯されませんでしたが、罪の責任を一人で負ってくださったのです。それは私たちの罪を赦すためです。
キリストの傷が私たちを癒やす
第3にキリストの打ち傷が私たちを癒やすということです。十字架の上で苦しみ悩み続けてくださったキリストの打ち傷が、私たちを癒やすというのです。普通、怪我人病人を癒やすのは健康なお医者さんや看護師さんですね。ところがキリストの場合、傷が私たちの傷を癒やすというのです。私たちは生きてるとどうにもならない苦しさ、辛さ、あるいは不幸な時期をくぐる時がありますよね。そういうときに、お笑い芸を見て心が晴れるでしょうか。呑気な小話ややたらと明るい歌が心を慰めてくれるでしょうか。かえって心が悶えるのではありませんか。いっそう孤独感が増してくるように思うのです。人が絶望しているときには、その絶望に寄り添えるのは同じように絶望的状況のなかで苦しんでいる人です。キリストは十字架のうえで、私たちの罪のために私以上に苦しまれた方です。しかもそこで終わりではなく、苦しみのトンネルを抜けて、復活された救い主なのです。いま私があえいでるこの苦しみにも、必ず脱出の出口があることを身をもって明らかにしてくださった救い主、それがキリストです。どうぞあなたもペテロのようにこのイエス・キリストを救い主として信じてください。心からおすすめいたします。
その口には欺きもなかった。
キリストは自ら十字架の上で、
私たちの罪をその身に負われた。
それは、私たちが罪を離れ、
義のために生きるため。
その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
(ペテロの手紙 第一 2:22,24)