ごきげんいかがですか。慶相龍です。
さて、1800年代の中ごろ、イギリスのヴィクトリア女王の次女で、アリス・モード・メアリーという人がいました。アリスは結婚後、七人の子どもに恵まれ、幸せの日々を送っていたんです。しかし突然の悲劇が彼女を襲います。彼女は血友病の遺伝子を持っていたんですが、それを受け継いだ次男をわずか二歳半で失うことになったのです。
彼女の悲劇はこれだけではありませんでした。子どもたちが当時流行していたジフテリアに、次々感染するのです。特に末娘のマリーは、姉たちが回復するのとは裏腹に、病状が悪くなる一方です。アリス自身も身体が弱く感染すると命を落とす危険が高いため、娘のマリーに近づくことができません。マリーは高熱と喉の腫れによって、呼吸困難に苦しんでいます。そのマリーが付き添いの人に言うのです。
「ママはどうして遠くにいるの。どうして近づいて抱きしめてくれないの。どうしてキスしてくれないの」とても大きな部屋だったのですが、アリスには愛するマリーのか細い声が鮮明に聞こえました。アリスは居ても立っても居られなくなって、娘のマリーに近づきます。制止しようとする腕を振りほどき、マリーを優しく抱きしめて、そして何度も何度もキスをしたのです。
残念なことに、娘のマリーは結局癒されることはなく、1878年の11月四歳で亡くなってしまいました。そしてなんとアリス自身も結局、ジフテリアに感染してしまいました。マリーが死んだ次の月の12月14日にこの世を去ってしまったのです。娘を想うアリスの命がけの愛は世界中の人々の心を打ちました。人間の持つ愛の中で一番大きな愛は母の愛だ、とよく言われます。著名な心理学者であるエイリッヒ・フロムはこう言いました。
「母親の愛は無条件だ。母の愛を得るために子どもがしなければならないことは何もない。しいて言えば、生きているということ。そして母親の子どもであるというその事実だけだ」
ところで、キリストの愛は子を想う母の愛とはまた異なった、言わば、母の愛でも直面する限界をも、超越してしまう大きな愛なのです。キリストは言われました。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛にとどまりなさい。」
父なる神が御子イエス・キリストをこよなく愛されたように、キリストはあなたを大きな愛で愛しておられるというのです。そしてその愛にとどまるようにと願っておられるのです。
ではキリストの示された愛とはどのような愛なのでしょうか。
三つのことを考えたいと思います。
敵を愛する愛
一つ目に、それは敵を愛する愛です。
かつてキリストは仰せられました。
「自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。」
キリストの愛は自分を愛してくれる我が子を愛する、というのとは違うのです。またキリストは言いました。
「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
このことばのとおり、キリストはキリストを信じようとしないご自分の敵であった罪人を愛し、ご自分を迫害して十字架につけろと叫んでいた罪人の罪をすべて引き受けて、鞭打たれ、十字架に釘づけられ、血だらけになって身代わりの刑罰を受けながら、祈られたのです。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」
父なる神はキリストの犠牲を受け入れられました。キリストの祈りを受け入れてくださいました。その結果、父なる神はキリストを信じる人たちに完全な、申し分のない罪の赦しを無条件で与えてくださるのです。なんの良いこともしなかった敵のために、罪の赦しを与えるキリストの無条件の愛にとどまってください。
あなたのために実際に死ぬ愛
二つ目に、キリストの愛は、あなたのために、一か八かでいのちの危険を冒す愛を超えているということです。
キリストの愛はあなたのために、確定している死に向かってゆき実際に死ぬ、愛なのです。
聖書は語ります。
「キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。」
神が人となって私の救いのために死んでくださった、そんな大きな愛で愛されていることに、あなたは気づいているでしょうか。それに気づいたパウロはこのように告白しています。
「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
十字架を見つめ、あなたに注がれているこの大きくて強い愛を信じ、確信してください。この大きな愛を受け入れ、この愛にとどまってください。
永遠の愛
三つ目に、キリストの愛は永遠の愛です。
聖書は語ります。
「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」
神の愛は永遠なのです。
『マラソン』という実話をもとにした韓国映画があります。自閉症の少年が母親の愛を受けながら、マラソン大会に挑戦する様を描いた感動作です。映画の中で母親が放ったひとことが忘れられません。「私の望みは自分が死ぬ一日前に息子が死んでくれることです」障害を持っている息子一人を残して死ぬことなどできない。私が死んだらこの子は一体どうなってしまうのか。この子の一生の間、自分が面倒を見てやりたい、でもこの子よりも長く生きていることなどできっこない。なら、いっそのことなんらかの理由で、この子が私よりも一日先に死んでくれたなら、この子がそのように死ぬのを見届けてから死ねたなら、どれほど安心して死ねるだろうか。エゴだとはわかってるけど、そう考えずにはいられなかったのです。やがて息子の面倒を見れなくさせてしまう死の問題について、母親は深く悩んでいたのです。
ところで、聖書は語ります。
「キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。」
また次のようにも語ります。
「イエス・キリストは、昨日も今日も、永久(とこしえ)に変わることがありません。」
キリストは十字架で死んで、三日目によみがえられました。キリストを信じる一人ひとりには、キリストと同じ永遠に死なないからだが、やがて与えられるのです。永遠に死なない方が永遠に死なないいのちを与え、永遠の愛をもってあなたを愛してくださるというのです。今も変わらず、あなたのためにいのちを惜しまない永遠の愛をもって、今からとこしえまでにあなたの、そしてあなたの大切な人の面倒を見てくださるというのです。
どうかキリストを信じ、その愛にとどまってくださいますよう、心からお勧めいたします。
(ヨハネ15:9)