#1188 キリストを真正面から受け止める

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
ところで、日本人がとても好む食べ物でありながら、日本で一番危険な食べ物で、これを食べて毎年何人かが命を落とすというようなものがあるんですね。お餅です。喉を詰まらして亡くなる方が、毎年いらっしゃるんですね。本来はとても良いもの、だけど受け取り方を間違うと、台無しになってしまうものなんですね。そしてそれは、聖書についても言えることなのです。
多くの方は聖書をキリスト教の戒律の本であるとか、道徳の本であるとか、ま、そのように勘違いされている方が多いように思うのです。もし聖書を戒律の本として読むなら、こんなにしんどくなる本はないと思います。しかしそれは間違った受け取り方なのです。と言いますのは、聖書自身が次のように語っているからです。

「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

つまりキリストは、正しく生き得ない人のためにこそ来てくださった方なのだと教えているんですね。今日は一年の始まりに、聖書の主題であるキリストについて、三つのポイントでお話しいたしましょう。

キリストは世に来られた

第一にキリストは世に来られた方である、ということです。この「世」という言葉は、ギリシャ語では「コスモス」という言葉なんですね。それは神から離れた人間社会をさす言葉なんです。私たちは生まれたときからこの世に居ります。そして自分自身が、創造主から離れた人生観をもって生きてきたんですね。ところが、キリストはこの世に来た方だ、つまりこの世以外のところからやって来た、この世に属さない存在だというんですね。この世に属さない存在とは、いったい何でしょう。神のことなんです。キリストはこの世界を造られた創造主であられるのに、この世の中に降り立ってくださった方なのだというんです。
昔、NHKでアメリカのテレビ番組が放映されておりました。『大草原の小さな家』という作品です。あるとき白人一家のところに、一人の黒人少年が転がり込んでくるんですね。彼は南部の奴隷農場から逃げ出して来たのです。時代はまだ南北戦争の前で、奴隷制度が生きていたころの話です。この少年は辛いことに遭い過ぎていたためか、人生に対して実に醒めているんですね。妙に大人びていて、「生きるということは苦しみ以外の何ものでもないのだ」と考えています。それに対して、白人一家の陽気なお父さんであるチャールズは「そう言うなよ。生きていたら辛いことはある。だけどいいこともあるの。それは長く生きていたら、分かってくると思うよ」と諭すんです。ところが少年はこう言い返すんですね。「白人で五十年生きるのと、黒人で百年生きるのと、どっちがいい?」チャールズはぐっと詰まって言葉が出てきません。「長く生きていればいいこともあるさ、というのは白人優遇社会で、白人として生きているからでしょ。奴隷が長く生きるっていうことは、奴隷人生が延々と続くことなんだよ。それわかってるの?」という意味ですね。「あなたは優遇された世界に生きる人、私は踏みにじられた世界に生きる人、あなたと私の間には、越えられない壁がある。絶対安全圏から、絶対的苦境にいる私に、気楽に『頑張れよ』と言われても響かないよ」とでも言いたかったようです。だからこそチャールズは答えに詰まってしまったのです。
しかし神は絶対安全圏を捨てました。キリストは神の在り方を捨てて、神と人との壁を乗り越えて、この世という反逆の世界に来てくださったのです。

キリストは救うために来られた

第二番目のポイント。「キリストは罪人を救うために来られたのです」ということです。戒律や道徳を示して、「これができない限り、全員滅びるだけだ」と言いに来たのではありません。正しく生きたいと願いながら、それができない罪人をあわれんで、救うために来られたのです。いったいどんな方法で、私たちを罪から救ってくださるのでしょう。人の罪を背負って、人の代わりに罪の罰を受けて砕かれるために、この世に来てくださったのです。ところで日本の車は大変よくできていまして、なかなか壊れないということで有名ですね。そんな自動車の中で、唯一壊れるように造られている個所が、一つあるんです。それは車のバックウインドウなんですね。背面のガラスは内側から叩くと、壊れるように設計されています。さらに壊すための道具も付いています。それは運転席と助手席の背もたれの枕の部分なんです。それを引き抜きますと、金属のポールが二本付いたままで取り出すことができます。その金属部分を、思いっきり後ろの窓にぶつけると、割れるようにできているそうです。いったい何のためでしょう。万一、海に落ちたときのためだというんですね。実は車は海や湖に落ちても、窓やドアが完全に密封されていますと、数分間は浮かぶように設計されているというのです。そうして浮いている間に、後ろの窓をたたき壊して脱出することができるというんですね。脱出するためにしなければいけないこと、それは窓を粉砕することです。そして打ち破られた窓を通って、沈みつつある車から脱出することができるのです。キリストは滅びに沈みつつある人間を救うために、十字架の上で打ち砕かれました。人のすべての罪を背負って、罪人の身代わりになってくださったのです。あなたのために犠牲を払ってくださったキリストは、死後三日目に復活なさいました。このキリストの十字架と復活によって、人は死と死後の滅亡から逃れる道が開かれたのです。罪人を救うために来たとは、そういう意味なんです。

私たちがすべきことは信じること

第三番目に、このキリストによる救いを自分のものとするために、私たちがすべきことはただ一つ。キリストを救い主として、信じることなんです。
では信じるとはどういうことなんでしょう。その解説が今日の聖書のことばの中にあるんですね。「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばを、真実であり、そのまま受け入れること、これが信じるということなのです。神という、絶対的に真実で偽りのない方のことばを、そのまま真実として
同意し受け取ること、つまりキリストの真実なことばを真実なものとして額面どおりに受け入れること、認めること、同意することを信じるというんですね。
あなたを愛して、いのちまで投げ出してくださったキリストが、どうしてあなたに嘘偽りを言うことがあるでしょう。あり得ないことです。是非あなたも、このキリストの真実な救いを、そのまま受け入れてください。あなたの救い主、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れてください。
 心からお勧めします。


使用CDジャケット
Migiwa:御名をほめたたえる歌声より

今日のみことば
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
(1テモテ1:15)