#1177 キリストに向きあって見えてくる自分

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

今から数年前に、マイクロソフトが開発した人工知能を使って、ある実験が行われたのです。インターネット上に飛び交うさまざまな意見や情報に、人工知能を繋いで自動学習させたんですね。しかし、その結果は恐るべきものでした。ユダヤ人ホロコーストを否定したり、ヒットラーを褒め称えるような発言をする人工知能になってしまったっていうんです。つまりこの人工知能は無茶苦茶な人種差別主義者の考えを持つ、独裁者志向の考えを習得してしまったというのです。
世の中には悪意が散らばっていますね。そして私たちもネット空間を賑わす話題にばっかりどっぷり浸かっていると、知らず知らずの間に差別主義者になってしまうのかもしれません。
しかし今日私が紹介したいのは、究極の善意と真実に満ちた人格と出会って心が決定的に変えられてしまった人です。それはイエスと共に十字架につけられた犯罪人です。キリストの十字架の左右に一人ずつ、同じ刑罰を受けた犯罪人がいました。一人は苦し紛れにイエスをののしり、「お前がキリストだったら自分とおれたちを救え」とののしります。その続きに聖書はこのように書いてあるのです。

すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」

さて、ここから3つのポイントで大切なことをお伝えしましょう。

神を恐れること

第1に、罪とは神を恐れないことなのです。
神を恐れないとは、神などいないという考えです。あるいはたとい神がいたとしても、いないも同然の存在だと見下すような態度で生きることです。
ところで、プロフェッショナルという言葉がありますね。日本ではこれを専門的職業について、それで生計を立てている人という意味で捉えています。例えば、ゴルフで食べてる人はプロゴルファー。音楽で食べてる人はプロミュージシャン。ボクシングで稼いでる人はプロボクサーです。プロとはアマチュアではないという意味でそのように言っているようです。しかし本来の意味は、神に対して誓った人という意味があるんです。
このプロフェッショナルという言葉は、ラテン語からそもそもはきたんですが、プロというラテン語は〜の前でという意味なんですね。そしてフェッションというのは、約束するとか、言い表すという意味なんです。つまりプロフェッショナルとは、神の前に誓いを立てた人という意味です。例えばお医者さんです。古代ギリシャでは、神に対して誓いを立ててからでないと正式にドクター、お医者さんとは認められませんでした。自分のところに連れてこられた患者に対してベストを尽くして治療をしますという誓いを立てて初めて医者になれたんです。
ある時、医者のところに重症を負った患者が運ばれてきます。しかし、よく見るとそれは親の仇でした。自分の母親を殺した犯人です。心情としては治療したくなんかありません。このまま何もしなければ死ぬでしょう。しかし、医者には自分の気持ちよりもっと拘束力のある動機があるのです。それは神への誓いなのです。神に誓ったからには本心では治療したくなくても、やはり治療するんです。
自分がしたくない良いことをさせる力とは、一体なんでしょう。神への恐れなのです。もし神を恐れるということがなければ、自分の気持ちが神になります。当然、助けません。こうして倫理観が崩れていきます。いま世界はなぜこんなに混乱と争いで緊迫してるんでしょう。神への恐れがないからです。

イエスと自分を比べる

第2に、十字架にかかりながら悔い改めた犯罪人は、イエスと自分を比べてみて初めて自分の罪に気がつくのです。
あるところに乱暴者の兄弟がいました。そのうち弟が死んだのです。兄は牧師のところに行って葬儀を頼み、そこでひとつお願いをしたのです。「弟のことを聖人、つまり正しく聖い人だったと葬儀の席で言ってくれ」って言うんです。牧師は「なんとか努力してみましょう」と言いました。さて、いよいよ葬儀が始まり、牧師は故人の生涯をたたえました。「彼は嘘つきで詐欺師でずる賢く、そのうえ盗みまでやってました。でも彼の兄と比べたら、聖人です」
どんなにひどい罪人も、もっとひどい罪人と比べるならましに見えてきます。1人を殺した殺人犯も、600万人のユダヤ人を殺したヒットラーよりかは善人だとは言い張るかもしれません。しかしヒットラーは2000万人殺したスターリンよりましだと言うかもしれません。しかしスターリンは1億人を死に追いやった毛沢東より、遥かに良い人間だと言うかもしれませんね。
しかし、比べる基準が間違ってます。ノートにフリーハンドで真っ直ぐな線を引いたあと、定規をあてたらやっぱり曲がってるということに気が付きますね。真に真っ直ぐな正しい真理そのものなる方の前に出て、人は初めていかに自分が歪んでいるのかということがわかるのです。
この犯罪人は、自分達が十字架にかかっているのは、それに相応しい悪いことをやったからだという風に言っています。当然の報いであったと言っているのです。しかし当然の報いであったとしても、それでも人生の途中で強制的に命を取られることを考えると、やはり悔しさや怒りが湧いてくるんですね。ところが、全く悪いことをしたことがない方が十字架にかけられているのに、この1つの罪もないイエス・キリストという方は憎しみがない。彼はここに神の子と人の子の違いを決定的に見たのです。
そしてこの聖い神の御子を前にしたときに、なんと自分は汚い罪人なのかということをようやく思い至ることができるようになったのです。

キリストが罪を赦される

第3にキリストは罪を悔いる罪人を完全に赦し、そして天国の希望で満たしてくださる方だということです。キリストはおっしゃいました。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
しかし十字架にかかるような悪行をやってのけた男が、なぜ天国であるパラダイスに行くことができるんでしょう。キリストが彼の罪を背負って、身代わりに神の刑罰を受けてくださるからです。どんな罪もキリストの赦しを覆すことはできません。どんな悪もキリストの愛を撤回させることはできないのです。
キリストはあなたのために今も変わらない愛と赦しの約束を提供しておられます。どうぞあなたもこのイエス・キリストを心に受け入れてください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
向日かおり:十字架の上

今日のみことば
すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
(ルカ23:40-43)