ごきげんいかがですか。那須清志です。
先日、義理の父親の付き添いで熊本県の天草を訪れました。そこは父親が子ども時代を過ごした懐かしい故郷です。電気がなかったころの様子や山で花を摘んで町に売りに行ったなどの昔話は何度も聞いてきました。今ではかなり拓けた現地でそのことを楽しそうに話す90歳を越えた父親の笑顔が印象的です。故郷を懐かしむ思いは誰にでもあると思いますが、「魂のふるさと」なるものがあるのをご存じですか。肉体は父親と母親を通して、母の胎から生まれますが、私たちの魂の源は創造主なる神にある。と聖書は語ります。ところが人間は創造主なる神から離れてしまいました。または、目に見えない神を木や石でできた偽物の神と取り替えてしまったと言います。聖書に次のようにあります。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
今日も3つのポイントで考えていきましょう。
多くの人は不完全さに気づいている
第一に、多くの人は薄々人間の不完全さに気づいている。ということです。
熊本の方と話しているときに「目にできたいぼ」の話になりました。みなさんはそれを何と呼びますか。私が育ったところでは「めぼ」と言っていました。「目のいぼ」を縮めて「めぼ」。一番シンプルで、一番いい呼び方かなと思ったのは都会に出るまでです。関西では「めばちこ」と言います。初めて聞いたときは、なんかばっちいものみたいに聞こえました。でもそれも方言で一般的には「ものもらい」とも言います。正式名は麦に粒と書いて「麦粒腫」です。これも仰々しいな、と思ったものです。ところが熊本ではこれを「おひめさま」と呼ぶのです。年配のおじさんが「おひめさまできた」と言うのを聞くと衝撃ですよね。
同じものでも言い方はいろいろです。聖書は人間の不完全な状態のことを「罪の中にある」とか「罪人」と表現しています。これは法律を犯した犯罪者というよりは「あるべき姿ではない、的をはずしている」という意味です。人間は神から離れて「罪の状態」にあるので、ある人は法に触れるところまで悪に進んでいくといいます。人間の法律の基準からは有罪にならなくても、はるかに高い神の基準からすればみな有罪になってしまったというのです。このことを多くの人は不完全ながら気づいているのではないでしょうか。それも真剣に善を求める人、実直に生きようと思えば思うほど自分の不完全さを感じ、ある人は自分を責めたり、それから脱却しようと努力したり、信心することもあります。未熟、我欲、煩悩、不全感、まだまだ修行が足りない…などの、表現は違っても人間の不完全さを多くの人は認めていると思うのです。聖書の人間観から言えば、それは「正直な人間の告白」で人間を正しくとらえていると評価しています。
神は人間の問題を解決しようとされた
第二に、人間の問題を解決しようとされたのは神である。ということです。
人間の不完全さに薄々気づいていても、自分で何とかしなければとか、自分で何とかできるだろうと軽くみてしまう傾向が人間にはあります。ところが思った以上にその症状は重く、人間の解決能力を遥かに超えており、それゆえに神ご自身がその解決を図ったというのが聖書が語る福音です。
熊本と言えば2016年に見舞われた大きな地震のことを思い起こす人も多いでしょう。熊本城は大きな損害を受けました。地震前に訪れ、天守閣の近辺を当時の姿に復元していこうという地元の熱心さに少し触れていた私は、地元の方々が精神的に大きなショックを受けただろうと容易に想像できました。今回、その修復の様子を見ることができました。何はさておき天守閣を最優先に修復し、地震から5年たった2021年には復旧工事が完成し、今は見学することができます。そこに至る道には応急措置を施された石垣が随所にありますが、簡単にアクセスできるように巨大な空中通路なるものができていて、人々の熱意を感じました。多くの案内ボランティアの方が待機しており、ある人が「この櫓は復旧にはあと5年、全体の復旧にはあと30年かかります…」と説明していました。復旧にあと30年、気の遠くなる時間ですが、何としてもやり遂げるでしょう。それを聞いていて「神の救いの計画」を思い起こしました。神と人間との関係修復、人間の罪の問題を解決し、神のもとに人間を招くために立てられた計画は十年単位ではなく、百年単位、千年単位で成し遂げられたものです。
人間の良心や正直さにつけこみ、多くの宗教が人間の手で生み出されました。そのままで救われるなんて虫のいい話であって、これをしなけらばならない、あれをしなければならないと、人間に行いを要求してきたのです。しかし、聖書の救いは神から来ます。人間が神のためにすべきことを考えたのが「宗教」ですが、人間のために神がしてくださったことを示すのが「福音」です。
神はイエスを通して人間を救われる
第三に、神は救い主イエスを通して人間を救われる。ということです。
先ほどの聖書のことばの続きにはこうあります。
「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。──主のことば──」(イザヤ55章8節)
神の方法は人間の発想を遥かに超えたものでした。神は救い主イエスを送ることを約束されました。イエスは、完全な人であると同時に神が人の姿をとられた特別な方で、人類の罪を背負って十字架の上で身代わりの死を遂げるというものでした。その救いの真実性と有効性を示すために、予告通りに死後3日目に死を突き破ってイエスは復活したと聖書は証言します。この歴史的事件が世界を変えました。
熊本城に比べると超マイナーな場所ですが、天守閣からも見える花岡山があります。その頂にキリスト教解禁間もない明治時代、熊本洋学校の若者34名が集まり、イエスを信じるという盟約を交わした場所が残っています。政治家・石破茂の曽祖父にあたる金森通倫(みちとも)もその一人でした。家に呼び戻され、著名な先生から邪教に迷ってはいけない、と叱られ諭されました。「邪教の本など読むものか」と言われた金森は「先生は大学の講義で空想はだめ、実物に触れて究めないと真理には至らないと言われているのに、どうして聖書に触れずに邪教邪教と言われるのですか…」と反論して呆れられます。また、後に外交官になった吉田作弥の親は刀を抜いて棄教を迫りました。吉田は静かに頭を差し出して「父上の手で死ねるならば本望です」と言ったといいます。もちろん父親は刀の背で首筋をたたいたまでで、命を取ることはありませんでした。
命をかけても惜しくないと思わせたのは聖書が示す圧倒的な事実です。人類の救いのために父なる神は人間の身代わりにイエスをさばかれました。まさに親が手に下すようなことが救いのためになされたのです。これは神の人に対する愛のゆえです。今から2000年前にその計画は成し遂げられました。
ぜひ、あなたもこの神の救いを受け取ってください。私たちが何かをするのではなく、神がしてくださったことを感謝をもって受け取ることです。自分の不完全さを認め、方向転換する用意のできている人は、だれでもこの救いをいただくことができます。心からお勧めいたします。
不法者は自分のはかりごとを捨て去れ。
主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。
私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。
(イザヤ55章7節)