#1126 世界は神のギフトで満ちている

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。三綿直人です。

さて、オリンピック、パラリンピックの最終日に設定されている陸上競技といえば、マラソンですね。1896年の第1回オリンピック、アテネ大会からずっと変わらず最終日に設定されているそうです。マラソン競技の起源は、古代ギリシャの伝令だそうです。自分の国に侵攻してきたペルシャ軍をマラトンで撃破したギリシャの伝令フェイディッピデスがマラトンからアテネまでの40kmを激走し、「私たちは勝利した!」と伝えたというのです。オリンピックのランナーは、「勝利のために」走りますが、フェイディッピデスは、「勝利を伝えるために」走ったのでした。ところで、聖書は、私たちに「勝利を伝えるために」書かれた神の手紙です。人は、勝利するために生きるのではなく、すでに神によって与えられている勝利を喜んで生きるように勧められているのです。しかし、私たち日本人は、勝利を与えてくださる神を知らずに生きているので、自分の力で勝利しようと頑張り、ある人は、勝ち組だと言って自分を誇り、ある人は頑張りすぎて疲れ果て、経済格差も人生の満足度格差も広がるばかりの世界になっているように思います。神といえば、人間の作り上げた宗教しか思い浮かばない日本人が多いように思いますが、今日は、そもそもこの世界は神が与えてくださっているギフトで満ちている、ということを、3つのポイントでお話ししましょう。

いのちは、神からのギフトである。

一つ目のポイントは、いのちは神が与えてくださったギフトである、ということです。この地球はいのちの星ですが、地球にいのちが躍動できるのは、惑星の中で、水の循環システムがあるのが地球だけだからと言えるそうです。地球と太陽の距離は1億4960万km離れているそうですね。しかし、この距離が少し近ければ、気温があがり、海の水は蒸発、少し遠ければ、海の水が凍ってしまい水の循環システムは成り立たないんだそうです。水の循環システムが成りたたなければ、いのちは存在できません。みなさんの中で、地球に水を与え、水の循環システムを設定した方は…、おられませんね。自分の力で、自分のいのちを少しでも伸ばすことのできる人間は、一人もいないんです。いのちは、人間が獲得したものではなく、神が与えたギフトだからです。いのちが神からのギフトであると知るなら、生き方が変わります。私たちは、いのちのために生きているのではなく、すでに与えられているいのちを喜び、いのちを用いて生きるのが人生であるということがわかるんです。人間は、愚かにもいのちが与えられているものであることを忘れてしまっていますが、いのちは、神からのギフトなのです。

2.愛は、神からのギフトである。

二つ目のポイントは、「愛は神からのギフトである」ということです。
アインシュタインの伝記を書いた著者、ウォルター・アイザックソン氏が「アインシュタインが妻に結ばせた契約」について書いています。物理学の世界では、偉人であったアインシュタインですが、その人格は、お世辞にも偉人であるとは言えないようです。アインシュタインの強みは、全て自分が気の散ることを締め出す力だったそうですが、その範疇は、妻と子供を含んでいて、彼がいとこに宛てた手紙によると、「私は妻を解雇できない雇い人として扱っている」というのです。彼の結婚生活は破綻していたんですね。そんな彼が後に離婚する妻と結んだ契約は次のようなものだったそうです。
Aあなたは、以下のことに気を配れ。
私の服と洗濯物はすぐに使える状態に整えていること
自分の部屋に定期的に三度の食事を届けること
私の寝室と書斎はいつも整頓されていること。ただし、机の上にあるものは、私以外の誰も触れてはいけない。
B 社会的理由から必要となる場合を除き、私との個人的関係を放棄せよ
家で一緒に過ごすことはあきらめよ
一緒に外出、または旅行することもあきらめよ
C 私との関係において、あなたは以下の事項に従え
私にいっさい親しさを求めてはならない。また非難してもならない。
私が要求した場合、話しかけてはいけない。
私が要求した場合、すぐに書斎から立ち去れ
D 子供たちの前で、私を悪く言うな。軽く扱うな

いかがですか。酷いと思われますか。科学の世界で成功するためには仕方がないと思いますか。考えは色々あると思いますが、夫婦の間に見るべき愛を見ず、子供に注がれるべき親の愛を受けなかったアインシュタインの子どもたちは、どうなったでしょう。次男エドゥアルトは、メンタルの病気で自殺未遂を繰り返し、最後は病院で一生を過ごします。長男のハンス・アルベルトは、「父が唯一断念した研究課題は、私だ」と自虐的に語っています。
さて、みなさんはアインシュタインをひどいと断罪することができますか?私はこれを読んだとき、深く考えさせられました。ここまでひどくはないかもしれませんが、程度の差はあれ、基本的に私たちは、自分の心地よさのために、相手に求めることが多いのではないかと思わされるんです。そして、それは愛ではない、人は愛を持っていないということを認めざるを得ないんです。
聖書は、愛は人間から出たものではなく、神から出たもの、愛の起源は、神であると教えています。そうです。愛が神からのギフトであると知るなら、生き方が変わります。愛のために生きるのではなく、愛を受けている者として、感謝して生きることができるのです。人間は、愚かにも愛が神から与えられているものであることを知らず、愛を獲得しようと生きていますが、愛は、神からのギフトなのです。

救いは、神からのギフトである。

さて、最後3つ目のポイントは、救いは神からのギフトである、ということです。聖書が語る救いは、罪からの救い、死からの救いです。私たちは人間の苦行、善行によって救いを獲得しようと多くの宗教を造り出しましたが、それらは罪と死に対して何の力もありません。救いは、神がキリストにおいて実現してくださった勝利に招き入れられることによって与えられるのです。
この夏に行われたパラリンピックで、ボッチャというスポーツに魅力を感じた方も多いでしょう。私はボッチャの団体戦を見て、大変感動しました。それは銅メダルをかけた戦いでした。団体戦は、4人の選手登録がされ、試合には3人の選手がエンドごとに交代しながら出場します。最終エンドで、4番目の選手が登場しましたが、彼女が1球も投げていないうちに、他の2選手の投球で、日本の勝利が確定したんです。キャプテンが彼女に声をかけました。彼女は涙を流しながら、自分の手玉の2球を、フィールドの中央に向かって投げたのです。キャプテンは、団体戦でこれまで共に戦ってきた仲間である彼女に、すでに勝利が確定しているゲームに参画させたんです。彼女の投球は、勝利するために投げられたのではありません。勝利しているので、その勝利の喜びに共に与るために、投球したんです。聖書が私たちに与える救いは、私たちが努力して獲得するものではありません。すでにキリストによって確定している勝利が与えられるんです。人は、自分の力では罪と死に勝利できないのですが、救い主キリストによってもたらされた大勝利に、この方を信じる信仰によって招きいれられることができるのです。なんと素晴らしいことでしょう。いのちも、愛も、救いも、本当に人間に必要なものはすべて、神からのギフトです。どうぞ、この素晴らしいギフトをあなたも受け取ってください。心からお勧めします。


使用CDジャケット
国分友里恵:なんと素晴らしいイエスの恵み

今日のみことば
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。
(エペソ2:28)