#1017 イエス・キリスト十字架上の祈り

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

さて劇団四季の創設者、浅利慶太さんは、劇団員たちに次のように語ったと言われています。
「保険会社は安心を売ってる。メーカーは便利を売ってる。では劇団四季は何を売ってるのか。」
みんなの答えを待たずに浅利さんは言いました。「それは、感動だ。我々は市民社会に感動を与える仕事に取り組んでいるんだ。」
この記事を読んで私自身はこう考えました。「では、福音は何を提供しているんだろうか。」
キリストなのです。神はキリストご自身を提供してくださいました。そしてこのキリストの中に、すべての良きものが入っています。
罪の赦しも永遠のいのちも、神との正しい関係も、人間を幸せにするすべてのものが、イエス・キリストの中にあるのです。
そしてこの祝福はキリストの自己犠牲によって、実現したのです。今日はキリストの十字架のことばから、ご一緒に考えてみましょう。
聖書に次のように書いてあります。

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。

超えてはいけないラインがある

第一のポイントは、キリストは最悪の罪に対して、最高の恵みで応ずる救い主である、ということです。
十字架に引かれていくイエス・キリストはずっと無言です。しかし、聖書は「そのとき、イエスは言われた。」と語ります。
「そのとき」とはどのときでしょう。まさにイエスの肉体に三本の釘が打ち込まれ、十字架にはりつけにされた、まさにそのときです。
神が送った救い主に対して、人間が最悪のやり方で拒否した、まさにそのとき、キリストの愛は爆発したのです。
私は小学生の頃、体育の授業中に友達同士で殴り合いの喧嘩が始まったことがありました。いつも仲良しの友達なのに、鼻血が出るような殴り合いの喧嘩です。
いったい何があったんでしょう。馬飛びで、背中に両手をついて飛ぶ瞬間、馬の役の子がわざと、ぐにゃっと力を抜いたんですね。
そのため、飛ぼうとしていた子は顔面から地面に激突したんです。ほんのいたずらのつもりだったのですが、やられた方は無茶苦茶に怒ったんですね。
先生の目の前で思いっきりパンチを繰り出したんです。彼がそんなに怒ったのは、痛い目に合ったからというより信じ切っていたのに裏切られたかのように感じたからに違いありません。
親しい中でも、この一線を越えたらアウトだ、という限界点があるんです。

一線を越えた者への愛

今から百年前、日本とロシアは戦争しましたね。日露戦争です。あの戦争はアジアを侵略するロシアの脅威から、自らを守るために戦った日本の自衛戦争です。
しかし、ロシアが日本に向けてあからさまな圧力を加えた理由の一つに、ロシア皇帝の個人的恨みがあったというふうに言われています。
実はロシア皇帝ニコライ二世は、皇太子の時代、日本を訪問中に日本人警官によって頭を切りつけられるというテロ行為を受けているのです。その時の傷と後遺症で生涯、ひどい頭痛に悩むことになったのです。
それ以来、ロシアの皇太子は日本人のことをマカーキーと呼び、怒りが治まりませんでした。マカーキーとは、猿という意味です。
将来皇帝になるべき人間に向かって、日本人の警官が重症を負わせたということは、絶対に赦せない最後の一線だったのです。
どんな人間関係においても、この一線を越えたら、絶交しかない、もう戦争しかないという限界ラインがあります。そして人は神に対してそれをしたのです。
人となられた神、イエス・キリストが来られた時、彼を拒み、あざけり、罵り、そして十字架につけたのです。
その最後の一線を越えた、まさにその時、キリストは怒りを爆発させたのではなく、愛を爆発させて、執成しの祈りを捧げてくださったのです。
こんな人格は神以外にはありえないことです。

キリストは神に祈ってくださった

第二に、キリストは正義の神に対して、罪人の側に立った祈りを捧げられたのです。
「父よ。彼らをお赦しください。」と心の底から祈ってくださったのです。
実はこの「お赦しください」ということばには「押しとどめてください」という意味もあるのです。
つまりキリストは最悪の罪に対する神の正義のさばきが、今にも下ろうとするのを、押しとどめる祈りを捧げておられるのです。
一体神の怒りはどのようにして、押しとどめられるのでしょう。別の受け皿を提供することによってです。
キリストは罪人の上に下るはずの神の怒りを、ご自分の上に降り下ろしてもらうことで、神の怒りが人には下らぬように祈ってくださったのです。
ところで「彼らをお赦しください。」の「彼ら」とは誰のことを指してるのでしょう。
第一にキリストの十字架死刑を望んだ、そしてそれを仕組んだ、ユダヤ人の指導者たちのことです。
第二に、キリストを実際に十字架にはりつけているローマ人たちのことです。
そして第三に罪を行っている私たち自身のためなのです。キリストの祈りは、ラジオの前のあなたのためでもあるのです。

人格ある方がとりなしてくださっている

第三に、キリストはこの執成しの招きの祈りを、今日もあなたのために続けておられる方なのです。
「そのとき、イエスはこう言われた。」の「言われた」ということばは、未完了形という時制なんですね。
つまり、キリストは「言い続けられた」という意味なのです。キリストは十字架の上で一回きり「父よ。お赦しください。」と祈られたのではなく、十字架にかかる前から、ずっと途切れることなくこの執成しの祈りを祈り続けておられたのです。
殴らる時も鞭打たれる時も、はずかしめられる時も、身体に釘を打ち込まれる時も、ずっと「彼らをお赦しください」と祈ってこられたのです。
先日、オーストリアという国で拉致事件がありました。プロのトライアスロンの女子選手、ナタリービアリーさんが、トレーニングのために公道を自転車で走っていたのです。
すると後ろから来た車にはねられ、自転車はこけてしまいます。運転していた男は車から降りてくると、何とこん棒で彼女を殴って、失神させるのです。
彼女が気が付くと、そこは古ぼけた一軒家の部屋の中で、肘掛け椅子に全裸で縛り付けられていたのです。
男は憎しみにかられ、彼女に無理やり酒を飲ませ、首を絞めたり、また水の入ったバスタブに彼女を沈めて水死させようとしたりします。
もう一巻の終わりかと思ってふと部屋を見渡すと、なんとランの花が所狭しと置いてあったというのです。彼女はランの花に話題をふると、徐々に男の興奮状態と憎悪が静まり始めたのです。
やがて男はガーデニングへの熱い思いを語り始めます。彼女は一つひとつ根気よく丁寧に聞きました。
そのうち、問題だらけだった自分の幼少時について、この男は話始め、やがて我に返って縄を解き、自転車ごと車で彼女を家まで送ったのです。
この男はその後警察に捕まります。当然のことです。しかし、なぜ、釈放したのでしょう。
わがままな自分の怒りに対して、一つひとつ共感を示し、根気よく話を聞いてくれた女性の中に、何かしら冒し難い神々しいものを見たからです。
ひどいことをしている自分に対して、冷静に知恵深く対応する姿に、物ではなく人格ある存在を見たからです。
キリストは、物でも思想でも哲学でもありません。血の通った人となった生ける神なのです。このキリストの自己犠牲と死後三日目の復活が、あなたの罪をすべて帳消しにしてしまったのです。
どうぞあなたもこのイエス・キリストを信じてください。心からお勧めします。


使用CDジャケット
国分友里恵:この人を見よ

今日のみことば
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。
(ルカ23:34)