#1147 落ちぶれた貴族の回復

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

先日、ある地方の医師会が、若者のスマホ依存に警告を与えるポスターを作ったのです。スマホを見過ぎていると三つのものを失う。時間を失い、視力を失い、考える脳を失うというのです。前二つはわかりますね、でもどうして考える力がスマホを見続けると無くなってしまうというんでしょう。スマホを通して人はたくさんの情報に触れることができます。しかしあまりにも情報を見ている時間が長くなると、考える時間が無くなってしまうというのです。そもそも情報とは、考えるための素材です。ところが素材ばかり集めてそれを使う時間が無くなってしまうと、結局ものを考えない人間になってしまう、というのですね。とても深いな、と思いました。ところで聖書もある意味で、情報だと言えます。それはあなたをお造りになった、神からの情報です。そして、この情報ほど真剣に考える価値あるものは他にない、と私は考えています。
聖書はこう語っているのです。

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

ここから三つのポイントでお話しいたしましょう。

人は神の最高傑作

第一に、人は本来神の栄光を受けるために造られていた、ということです。創造主はありとあらゆるものをお造りになられましたが、その中で最高傑作は人間です。というのは、神はご自分のかたちに似せて、人を造られたと書いてあるからです。
最も偉大な神に似たものとして人間を造られた、というのはどういうことでしょう。人間は神以外のすべてのものより、尊く造られているという意味です。
私の好きな英語の賛美歌に、「フィンガープリンツオブゴッド」という曲があります。「神の指紋」というタイトルですね。鏡に映るあなたの姿は、雑誌の表紙のようではないけど、あなたを見るとき、神の指の跡がはっきり見えるよ。私は知ってる、あなたは神の最高傑作であり、すべての造られたものが、あなたにエールを送っているということを。そしてあなたが神の御手で、守られているということを。
いったい人間の何がそんなに尊いのでしょう。人格を持っているということなんですね。私たち人間は神と同じように、ものごとを考える能力、決断する意思、感じる能力が与えられているんです。太陽というのは大きくて、太陽の1フレアのエネルギーというのは、水爆10億個分のエネルギーに相当すると言われています。しかし太陽は自分が大きいとか、熱いとか、そういったことを一切自覚できません。なぜなら水素のかたまりに過ぎないからです。

神の栄光を受けることができなくなった結果

第二に、人ははじめ尊く造られたけれど、罪を犯したために神の栄光を受けることができなくなった、ということです。
太宰治の代表作に『斜陽』という小説がありますね。戦争が終わって国の体制がガラッと変わったために、没落していく元貴族の一家の物語です。家族はそれぞれに落ちぶれて行くんですが、主人公の一人である、この息子の直治というのは実にみじめなんですね。薬物中毒で酒ばっかりくらって、放蕩をくり返して、実に好き勝手な人生を送っているように見えるんですが、しかし本人はどんなに落ちぶれても、その落ちぶれた生活を楽しめない、楽しいと思えなかった、と述懐するんです。自分の中の「貴族だった」という意識が邪魔をして、悪を行いながらも悪を楽しむことができない、かといって元に戻ることもできない。「本来自分はこうであってはならないものなのに」という、その意識に苦しんで、中途半端な葛藤を抱えながら最後自殺をしてしまうという話です。
人間は本来神の王子、神の王女となるべく造られました。ところが最初の人間が罪を犯し、神との関係を打ち切ったために、神からの栄光を受け取ることができなくなってしまったのです。そしてその結果、本来受けるべきでない死が、人間の中に入ってきました。

死は人間の本性に逆行するもの

ところで北海道の旭山動物園では、動物をおりの中に閉じ込めるのではなく、動物の行動そのものを見れるように工夫がなされています。そしてそこでは、死を前にした動物も、そのまま見せるんです。園長が書いていました。オオカミは老衰でボロボロになり、ヨタヨタとしか歩くことができなくなっても、飼育ゾーンから外へ出て運動エリアにまで行き、そこでへたり込み、終日昼寝をして、そしてまた戻って来る。あまりにみじめで、あわれで、「こんなにもかわいそうな姿をなぜ人目にさらすんだ」と。
よく来園者からクレームが入ってきます。しかしみじめだとか、あわれだとか思ってるのは人間だけで、当のオオカミは少しも恥じてはいない。動物の死にっぷりの良さは別格で、まるで「じゃぁな」と言って去るように死ぬんだ、と書いていました。ところが人間は死に対してそうはいきませんね、この人の死に対する異様な怖がり方は、自然界の中にはありません。自然界の中でこんなにも、死を前に震え上がりジタバタする者はいないのです。
人間がそのようにおびえるのは、臆病だからではありません。死というものが、本来人間にあり得ない、似つかわしくないものであるからです。人は神の栄光を受けて生きるように造られていたのに、神の栄光の正反対である死を、受け取らざるを得なくなっているのです。それは人間の本性に逆行することなので、人は死に抵抗するのです。

キリストは死んで復活された

第三に、キリストはこの没落した神の王子たちを、取戻し回復させるために、人としてこの世に下り、十字架にかかって私たちの身代わりの死を遂げてくださいました。そればかりか3日後によみがえって、死を終わらせてくださったのです。
今から二百年ほど前、アメリカにジョージ・ディーレーという宣教師がいました。彼は奴隷の身分で生まれながら、キリストを信じて永遠のいのちを持ち、その後独立戦争前に自由人となったのです。その後ジャマイカにわたって、農園で働く奴隷たちに福音を伝え、ジョージア州サバンナで二つの教会を設立しました。バプテスト派の黒人教会はそのひとつから生まれたというふうに言われています。
ところでなぜ彼は、自由になった後も奴隷に福音を語ったのでしょう。自分もかつて奴隷を経験し、そして今は自由になったことを、身をもって証明できる人であるからです。
キリストは一度死にました。罪がないのに、罪人の責任を負って死んでくださったのです。しかし復活なさいました。それによってすべて死におののいている人々に、希望を示されたのです。
だれでもこのキリストを信じるなら、罪赦されて永遠のいのちをいただくことができるのです。どうぞ、あなたもこのイエス・キリストを信じ、永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
大宮香織:毎日が奇跡

今日のみことば
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
(ローマ3:23-24)