ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
ある老舗のお蕎麦屋さんで蕎麦打ち職人の募集をかけたそうです。創業120年のお店です。「一緒に働きませんか」誰も応募しなかったそうです。「他県からもお客さんがやってくるような店です。一緒に働きませんか」1人の応募者も無かったそうです。「1日中、人と口を利かなくてもいい仕事です」50人近い応募があったっていうんですね。みんな仕事が嫌いなのではありません。人との関わりでしんどい目をしてきた人が多いんです。
どうして人間社会にいるとこんなに疲れてしまうんでしょう。基本プロの世界というのは競争社会、成果を上げて初めて認めてもらえる社会、常に勝ち続けることが求められる社会であるからです。
ある時キリストはこう言われました。
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
ここから2つのポイントで考えてみましょう。
プロゴルファー中嶋常幸さんの自伝
第1に、疲労の原因は、自分の力以外に自分を支えるものは何もないという人生観にあるということです。
私は先日、プロゴルファー中嶋常幸さんの書いた『ロープ』という自伝を読みました。彼のゴルフ人生は父親との壮絶な戦いの人生です。小学生の時から好きで始めたゴルフでしたが、プロを目指させようとする父親は鬼コーチ、鬼軍曹だったのです。ゴルフ以外のことは全くさせてもらえず、負けたら叱咤され、勝っても「もっと上を目指せ」と圧がかかります。
厳しく厳しくされて育てられた彼は、人生とは競争に勝つことだと考えるのです。おかげで彼は若くしてプロデビューし、そして日本のゴルフ界では次々と賞をとります。
しかしスランプがやってきたんです。勝てなくなると、今まで以上に益々自分を追い込んで練習に明け暮れます。それ以外に方法がないと思っているからです。そのようにして1年、2年していくうちにスランプから回復していくのです。
しかしこれで一件落着ではありません。またスランプがやってくるのではないかという恐怖が、募ってくるというのです。そうなったらそうなったで、もっともっと練習して乗り越えていく以外ありません。いよいよ頑張る人生が始まるのです。そしてそうすることを激励するのはお父さんだったんです。
そんななかで中嶋選手が非常に孤独になっていくなかで、最初のスランプの時に出会った律子さんという女性と結婚します。結婚しても夫婦の生活はほとんど出来ませんでした。父親からゴルフばかりをさせられるからです。このままでは夫は潰れてしまうと居ても立ってもおれなくなった律子さんは、彼をキリストの教会に連れて行ったのです。そして中嶋選手はキリストを信じ、洗礼を受けるんですね。
ゴルフがすべての人生
しかし洗礼を受けても、ゴルフに対する態度は全く変わりませんでした。信仰のことは信仰のこと、ゴルフのことはゴルフのことで、ゴルフだけは神でもなんともできない、これは自分の力で乗り越える以外ないというその考えに取り憑かれていたのです。
ある日良い成績を取って戻った夫に「祈っていたよ」と言うと、彼は急に不機嫌になってこう言ったそうです。「お前の祈りで俺は勝ったというのか。俺は必死に練習して勝った。もう祈るな。」彼女は愕然とします。この人の人生の全てはゴルフです。そしてゴルフは自分の力でやり遂げて勝っていくものだと思っています。全てを支配する神ということが、彼の中に成立していないんですね。
なぜ彼はそのように考えてしまうのでしょう。おそらく鬼軍曹のような父親と、自分の造り主である神のイメージがどこかで重なっていたからかもしれません。父親は叱咤しますが、ゴルフは自分で勝たないとどうにもなりません。
ある時、この父親と一緒に住んでいるということにどうにも居た堪れなくなり、彼と奥さんは夜逃げ同然に家出をするんです。父から独立して間も無く、お子さんを授かりました。しかしまたあの悪夢のようなスランプがやってきたのです。3度目のスランプは本当に長いスランプでした。それは致命的なものです。というのは、打とうとすると手が震えて止まらなくなるというんです。たった30㎝のパットを入れる時も、長い距離の時にも、手の震えが止まらないんですね。こんなことでは勝てるはずがありません。やがて百何十位とか予選落ちが続き、何をどうやっても勝てず、CMのスポンサーも全部打ち切られ、収入の道が断たれていくのです。そこまでいっても自分の力でやるしかない。頑張り続けていくんですが、しかしどうしてもそこから抜け出ることができないんです。
とうとう、どん底に落ちて予選落ちしたとき、彼は奥さんに電話をかけました。「もう疲れた。頑張ったから、もうこれでいいだろう。」そう言い残して、全く音信不通になります。奥さんも子どもも必死で祈りました。死ぬかもしれないと思ったからです。
しかし暫くして家に戻った彼は、ここから一緒に教会に行くように変わっていったのです。彼は確かに洗礼は受けていたんですが、教会にはずっと行ってなかったんですね。しかし教会のなかで語られる福音には、この世の社会の原理とは全く異なる世界がありました。
キリストに自分を委ねること
これが第2のポイントです。人生に疲れ果てるのは自分以外に自分を支えるものがないと考えているからです。しかし実は自分は生きてきたのではなく、生かしてくださったキリストに自分を委ねることに回復の秘訣があるのです。
妻や友人や教会のクリスチャン達は、自分が勝っても負けても関係を切ることはありませんでした。変わらずにあたたかく友であり続けてくれたのです。教会のなかで讃美歌を歌っていたとき、「あぁ、勝たなくてもいいんだ。たとえ負けても神は私を見捨てられないんだ」と思えたそうです。
勝てない人間は神にとって魅力がない人間になると思っていましたが、それは勘違いです。神は人が勝とうが負けようが、関係なく愛してくださる方だとようやく分かってきたのです。徐々に勝たねばならないという強迫観念から解放されていきました。そしてこれを決めれば遂に優勝だという場にたって、これを外しても神は私を見捨てないんだ、安心していいんだと思って打ったところ、見事優勝するのです。7年ぶりの復活優勝です。
彼はこのように書いていました。「人はどんなに努力して修行しても、神のところに行くことはできない。たとい神のところに行ったとしても、神はいると思っていたところに神はいない。なぜならすでに神は人となって、救い主キリストとなって、僕のところに来てくださっていたからだ。」
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。この意味がとうとう彼にもわかったんですね。あなたはいかがでしょうか。あなたの疲れや苦しみを楽にし、そしてあなたと共に歩むために救い主となって命まで捨ててくださった方。
どうぞこのイエスキリストを信じ、この方に従ってください。心からお勧めいたします。
(マタイ11:28)