#1135 再び来られるイエス・キリスト

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。那須清志です。

今年、2021年も残すところわずかになりました。2021年というのは、若干誤差はあるものの、イエス・キリストがこの地上に来られて2021年経った、という意味です。
この年代の数え方は、別の観点でとらえることもできます。「2000年近く経ってもイエスは帰ってこない」というものです。「再び臨む」と書く、「再臨」がまだ来ていないという意味です。
多くのクリスチャンたちは「今年も主は来られなかった、来年はどうだろう…」と思います。今日は、このイエスが再び来られるという「再臨」について考えていきましょう。

馴染みがない「再臨」

十字架や復活のメッセージはよく耳にしても「再臨」について聞くことは少ないと思います。どうしてかな、と考えると、やはりあまりにも突拍子もないことで、引かれるんじゃないか、と思い話題にしないのが多いからかもしれません。
実は、日本でお馴染みの仏教でも似たようなことが言われています。仏教における救い主のような存在に「弥勒菩薩」がありますが、何と56億7000万年後にこの世界に現れると言われています。5億6000万年後というのもありますが、いずれにしてもあまりにも先のことで仏教徒でも普通考えないでしょう。自分の死の方がはるかに現実的ですね。また、これについては仏教を始めた釈迦自身が直接語ったことではなく、後代に出てきた考え方というのは周知の事実です。
イスラム教でもあるんです。救い主のような方が現れると信じられており、その名をマフディと言います。でも、終わりの時代になれば同時にイーサと表現されるイエスも預言者として再臨し、活躍すると言っています。この考えが出てきた年代を考えても聖書の影響を受けていると言わざるを得ません。
次のような聖書のことばがあります。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

この「二度目は人々の救いのために来られる」というのが「再臨」のことです。イエス自身も裁判を受けて「お前は救い主か」と尋問されたときに「そのとおり」と言うだけではなく、「後にもう一度この世界に栄光の姿で戻ってくる」と宣言したのです。これは火に油を注ぐような発言です。「神を冒涜している」ということでイエスの死刑は決定的なものとなりました。
まさに命をかけて語られた「イエス・キリストの再臨」についてさらに3つのポイントで考えていきましょう。

再臨は十字架、復活、昇天とのセットとなるもの

第一に、「再臨はイエスの復活に続くもの」ということです。
イエスは十字架に架けられた後、墓に葬られましたが三日後に復活したと聖書は証しします。500人以上の弟子たちの前に現れました。
その後はどうなったのでしょう。もし、そのまま何年間か生きて、最後にどこかで亡くなったのであれば「蘇生」に過ぎなかったことになります。弟子たちのその後の証言とは全く相容れません。聖書によると復活して40日経った後、オリーブ山から天に帰って行かれたとあります。そのときの約束が「再び、戻ってくる」というものでした。
実は新約聖書を読むと、初代のクリスチャンたちは今すぐにでも、イエスが再臨、すなわちまた戻ってこられると思っていたようです。まさか2000年も待つことになるとはだれも思っていませんでした。もちろん、地上での再会ではなく、地上の生涯を終えて天での再会となったのです。
イエスが天に帰られたことを「天に昇る」と書いて「昇天」と言います。イエスの再臨は十字架、復活、昇天とセットになっているのです。

再臨は必ず果たされる約束

次に「再臨は約束された救いの実現」ということです。
先ほど「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました」とありましたが、最初にキリストが来られた目的は人類の罪の赦しのためでした。私たちが受ける罪の裁きをキリストが身代わりに受けてくださったのです。この救い主のことは以前から予告されており、古くはユダヤ人の先祖アブラハムも待ち望んでいた、とあります。
実際にキリストが預言通りに来られたのはアブラハムの時代から2000年も後でした。2000年間待ったとはいえ、神は約束を果たされたのです。今は再臨の約束を2000年間待っています。でも、初め同様、時間はかかっても約束は必ず果たされると信じています。また、今度来るのは十字架にかかるためではなく「彼を待ち望んでいる人々の救いのため」です。
イエスを信じ、罪赦された者たちは安心してキリストを待つことができます。ただ、イエスが来られるよりも先に地上での生涯が終わるクリスチャンもたくさんいました。彼らは再臨前のキリストに天で会うこととなったのです。

再臨は神が導く社会の幕開け

三つ目に「再臨は理想社会への転換点」ということです。
今年衝撃的だったニュースの一つは、アフガニスタンで活動しておられた中村哲さんが銃撃されて亡くなったことでした。生前のインタビューの中で「私も一応クリスチャンですから…」と謙遜に応えておられました。
このように信仰を現実の社会のために生かし、イエス・キリストの愛を実践している方も世界中におられます。しかし、残念ながら究極の理想社会を人間の手で作り出すことは難しい、と聖書は語ります。神だけが私たちの夢を実現してくれます。その時代の先駆けとしてイエスは再臨されるのです。
終末時代ということばがよく使われますが、聖書が語る終末はすべてが終わる、というのではなく、人間が自分たちの力で何とかしようとする時代が終わるという意味です。キリストの再臨とは地上の悪が罰せられ、神が導く理想社会の幕開けとなる一大イベントなのです。
実は聖書にはいつキリストの再臨があるか明確にしていません。逆に、日時を指定して語る者に対しては十分注意せよ、と警告しています。偽預言者の可能性が高いからです。とは言うものの、再臨が近いのではないか、ということは多くのクリスチャンが感じています。聖書に示された前兆としての出来事を今の社会の中で多く見ているからです。
いずれにしても、この地上でか、または地上の生涯を終えてからか、私たちはキリストと会うことになります。そのとき「自分の罪を裁く裁き主」としてお会いするか、「自分を罪から救い出してくれた救い主」としてお会いするかは大きな違いです。
罪の赦し、神との和解を、是非今、この時に経験してください。そして、「今年はキリストが来られるだろうか」と新しい年を希望をもって迎えるものとなってくださることを心からおすすめいたします。

【お詫びと訂正】
中村哲さんの銃撃事件を今年と表現していますが、正しくは2019年12月の間違いです。訂正してお詫び致します。


使用CDジャケット
大和田広美:永遠の約束

今日のみことば
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
(へブル9:27-28)