明けましておめでとうございます。高原剛一郎です。
今年もよろしくお願いします。ところで、『おめでたい』という言葉は、春になって植物の芽が出る、『芽が出る』から『めでたい』という言葉になったようです。いのちの躍動が始まるということに由来しているんですね。そこで今日はこの新しい年、新しいいのちの躍動を語る聖書の言葉をご紹介しましょう。
あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。
ここから3つのポイントでお話しましょう。
スポンサー同士の対立
第1に、人生の重荷はなぜ生まれるのかということです。生きているといろんな重荷やストレスがかかってきますね。しかし、その重荷の中身の大半は人間関係に由来するものです。
なぜ人間関係が重荷になるのでしょう。人にはそれぞれ自分の正義があって、それを相手にのませようとするからです。しかし、相手にも相手の正義があって、相手の目には私の正義が不当にしか見えないんですね。互いに譲り合いませんので、そこにストレスが生じるということです。
スタジオジブリの名プロデューサー鈴木敏夫さんの本にこんなことが書いてありました。ある時、『となりのトトロ』と『火垂るの墓』というジブリ映画を2本立てで全国上映で打って出るという、そういうプロジェクトが始まったのです。
全国に向けてアピールするために広告をうつことになります。
ところがそこで揉めたというのです。というのはトトロのスポンサーは徳間書店、火垂るの墓のスポンサーは新潮社でした。どっちも自分たちが考えた宣伝コピーの方が良いと言って一歩も引かなのです。徳間を立てると新潮が反対し、新潮を立てると徳間が反対します。もうどうにもこうにもならずに完全に行き詰まってしまいました。
神を見失った結果として対立がある
この時、鈴木さんは一体どうなさったんでしょう。何と突然どちらの案もとらずにその当時日本一売れっ子のコピーライター糸井重里氏に仕事を依頼したというのです。
この作戦は大成功をおさめました。というのは、徳間のコピーライターも新潮社のコピーライターも糸井さんには一目置いていたからです。というより、コピーライターの世界では糸井さんは雲の上の存在なんですね。
トトロのコピーは“このへんないきものはまだ日本にいるんです。たぶん。”です。火垂るの方のコピーは“4歳と14歳で、生きようと思った”やぁ、2つとも秀逸ですね。このコピーが決定して、後は全く上手く回り始めたそうです。
対立していた両者はなぜ自分の正義を引っ込めたんでしょう。自分たちより遥か上の人の前にへりくだらざるをえなかったからです。何故、私たちの世界に対立が絶えないのでしょう。人間を遥かに超えた絶対主権者を見失い、それぞれが自分の小さな正義を振り回してるからではないでしょうか。
重荷は上手くいかないことで生じます。上手くいかないのは自分が神でもないのに相手をコントロールしようとするからです。
最終結果を神にお任せする
第2に、聖書はあなたの問題、あなたの重荷を全て主にゆだねよというのです。
主とはこの世界を造られた創造主なる神です。そして、ゆだねるという意味は、ヘブライ語のニュアンスでは“投げつける“とか“転がす“という意味なんですね。つまり、あなたの問題を主の上に丸投げしなさいというふうに勧めているのです。
ところで、リッツ・カールトンという高級ホテルではお客さんから相談を持ちかけられたら、その内容を聞く前にまずこう返事することになっているそうです。「答えはもちろんYESです。」そう言って後に相談内容を聞くっていうんですね。
ある時、ホテルでパーティーが催されることになりました。ところが主催者の招待状の文面のミスによって招待客の人数が予定していた2倍になってしまったというんですね。そして、パーティーの主催者がそのことに気付いたのはパーティー当日なのです。真っ青になってホテルの支配人に相談に行きました。相談された支配人は「答えはもちろんYESです。」と応じ、ことの次第を聞くとこう言ったそうです。
「一つだけお願いがあります。契約書の文面の中のパーティー参加人数を2倍にするということをOKしていただけますか。」「もちろんです。」支配人はこう続けたそうです。「ご安心ください。これでこの課題は私たちホテルが解決すべきものとなりました。もう大丈夫です。あなたは今リッツ・カールトンにいるのですから。」
カッコいいですね。この支配人の言葉の中にゆだねるという行為の説明が見事になされているように思います。主にゆだねるとは問題を主の問題にしていただくということをOKすることなのです。その解決方法は神が神らしい方法で成し遂げてくださると信じて、私の問題を神が取り組むべき課題にしてしまうということなのです。
それは無責任になるということではありません。人としてやるべきことは当然みな果たすべきなのです。しかし、それを全部やってしまった後で、それでもどうにもならないことがあります。その最終結果については神にお任せする、これが主にゆだねるという意味なのです。
罪びとであることを認める
第3に、主は正しい者を決して揺るがされるようにはしないということです。
ところで、ここで語られている正しい者というのはどういう人のことを言うのでしょう。これは罪がどこにも無い人、一つも罪を犯したことがない人という意味ではありません。そんな人間は一人もいないと聖書自身が語っているからです。ここで語られている正しい者とは、正しい方は主だけだと認める人のことなのです。
そして、自分では正しい人間にはなり得ないということを認め、神の正しさに身を避けていく人のことなのです。もっと言うなら、自分を罪人と認め、自分の不完全さを認め、自分の至らなさを認め、キリストの赦しの中に逃げ込んで助けを求める人のことを正しい者というのです。というのは、聖書はキリストを自分の救い主として信じる人のことを信仰による義人、正しい人と読んでいるからです。
どうぞ、あなたも新しい年の初めに罪人を正しい者とするために、人になり、十字架にかかり、死んでくださった方、そして、3日目によみがえられたイエス・キリストを受け入れてください。この方によって神様の子供となり、そして、子供が親に重荷をゆだねるように、神に人生をゆだねる人生の中に是非お入りください。心からお勧め致します。
(詩編55:22)