ごきげんいかがですか。那須清志です。
今年、2021年は東北大震災から10年目です。これまで何度もボランティアに行かせていただきましたが、今年もコロナ禍にありながらも福島県に訪問することができました。当初、作業中心だった活動が、次第に仮設住宅訪問に移り、避難している方々との交流になりました。コーラスを聴いてもらったり、歓談の時間を取ったりして、関係を深めています。
今日は、この活動を通じて教えられたことから、福音について考えていきたいと思います。
神が人となって来られた
聖書に次のようなことばがあります。
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
救い主イエスは約2000年ほど前に、ユダヤ人としてこの世界に生まれました。完全な人としてこの地上を歩まれましたが、聖書はイエスが神の霊によってマリヤの胎に宿られた特別な方だと語ります。他の言い方をすると「人となって天から来られたひとり子の神」だったのです。
私たちが大阪から900キロの距離を機材を積んだ車で訪れると多くの人が「遠いところをよく来てくださいました…。」と感謝してくださいます。確かに「簡単に行ける」とは言いませんが、そう言われるたびに一つのことを考えさせられるのです。「創造主なる神は、私たちのことを心配して、地上の遠い所からではなく、天から来てくださったんだ。それに比べたら、私たちがしていることなど些細なことだ…。」と。
今から50年程前、アメリカのアポロ計画によって人類は月を目指しました。最終的に10人程が月面に立ちました。この栄誉に与り、後に熱心なクリスチャンとなったジム・アーウィンという宇宙飛行士は次のように言っています。
「人間が月の上を歩んだことは重要だが、イエスがこの地上を歩まれた、ということの方がさらに重要だ。」と。
旧約聖書に予告されていた救い主イエスの誕生は、歴史を大きく変えました。カレンダーそのものに影響を与え、イエスの誕生を境に、紀元前と紀元後という言い方になったのです。若干の誤差はあるものの、今年2021年とは、イエスが地上に来られて2021年目という意味です。
創造主なる神が、人間の歴史の中で人の姿をとって来られたことがある。これが福音のポイントの一つです。
十字架という神の不思議な計画
先ほどの聖書のことばの後半に「ご自分の民はこの方を受け入れなかった。」とありました。
これはイエスがユダヤ人から救い主として受け入れられず、排斥され、最後は十字架で処刑されたということです。イエスは人が普通考えるような罪を犯したのではありません。ご自分が救い主であり、神そのものであることを宣言したとき、特にユダヤ人指導者たちは「神を冒涜している。」と言って罪に定めたのです。救い主のしるしとしての奇蹟を見ても「悪霊の力でやった。民衆を惑わしている。」と決めつけました。また、群衆からの人気を妬んだ結果とも書かれています。
さて、私たちが東北訪問を続けて行うことができるのは「喜んで受け入れてくださる方がいる」からです。当初、仮設住宅が閉鎖と同時に、このような形の訪問も終わりと思っていました。しかし、一足先に復興住宅に移った方たちが、わざわざ仮設の集会所まで来て「復興住宅にも集会所があるから来て。」と誘ってくれたのです。また、地震・津波・原子力災害の当時の様子を聞くことも多く、その過酷な状況を力強く生きていく姿から私たちが励まされたり、教えられたりするのです。このように歓迎して頂いたり、私たちにとっても得ることがあったりするからこそ、続けて行うことができると言えるでしょう。
一方、神がなさったことは不思議です。神はイエスがご自分の民からどのような仕打ちを受けるか予想できました。現に、時間を超えた方はその苦難の様子を預言の形で予め記録していました。であればどうしてイエスを送ったのでしょうか。その理由は「神の愛、恵み」です。神は人間をどこまでも愛し、できる限りの愛を注がれました。それまで頑なだったからと言って愛の手を緩めることはなかったのです。人間がイエスを十字架につけたのは事実ですが、その行為を、人間の罪の身代わりに十字架の上で裁かれるという、神の不思議な計画の中に組み入れてくださったのです。
子を失う痛み
今回のボランティアメンバーでいわき市の薄磯地区を訪れました。ここは津波で壊滅的な被害を受けた所です。現在、土地は嵩上げされ、大きな防災緑地帯が整備されて、被災直後の様子とは大きく変わっていました。そこで犠牲になった方の一人に、鈴木姫花さんという当時小学校4年生11歳の女の子がいます。彼女は作文に将来デザイナーになりたいと夢を記していました。絵が大好きで、その地区にある塩屋崎灯台を題材に描いた絵が、作品展で賞をもらっていました。彼女のことを知ったプロのデザイナーはその図柄をハンカチにして人々に紹介したのです。それをきっかけに姫花さんのお父さんがハンカチを販売用として作ることにしました。そして、その収益すべて寄付して災害復興のために役立てようとしたのです。お父さんはその気持ちをこのように語っています。
「彼女のデザインでハンカチを作る。その収益を全て寄付する。そうすることで彼女は亡くなった後でも、ずっと誰かの役に立ち続ける。それは彼女が生きているのと違わないんじゃないかと。」私も同じ年頃の娘がいるので心が揺さぶられました。「娘の死を無駄にしたくない」「身近にいなくても、あたかも生きているように人々の役に立たせてあげたい」というお父さんの気持ちが心に迫ってきます。
実は子どもを失うという痛みを神も経験したと聖書は語ります。それは災害で失ったのではなく、人間の罪のゆえに苦しみを強いられ、無残な死に追いやられたのです。同時にそれはイエスの同意なしには成し遂げられませんでした。イエスは自らの意志で「人間のための身代わりの死を遂げてくださった」のです。父なる神はイエスの苦難を人間のために用いました。その後、神はこの救いの計画が完成したことを証明するためにイエスを墓からよみがえらせ、復活させたのです。
祝福を受け取るチャンス
冒頭の聖書のことばは次のように続きます。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
神の思いは、ご自分のひとり子であるイエスの死を無駄にしてほしくない、ということです。それは単に忘れてほしくないということではありません。あなたが祝福を受けるチャンスだからです。あなたの代わりにさばかれたイエスによって、罪からの解放、そして天国への切符が準備完了となりました。あとは、あなたがそれを受け取る意思を神に表明するだけです。「創造主である神さま、あなたが用意してくださった救いを有難くいただきます!」と願うことです。
お金を払う必要もないし、善行をして褒美としてもらうというのでもありません。神はその大きな愛のゆえに、オール・フリー、完全無料で与えたいと願っておられます。私たちは感謝して受け取るだけなのです。是非、あなたもこの救いをお受け取りください。心からお勧めいたします。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
(ヨハネ1:11-12)