#1123 罪のストーカーからの解放者

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

先日私は、海外のニュースで滑稽な事件を知りました。事件が起きたのはオーストラリアのウロンゴンのコンビニです。そこに一人の男がやって来て、レジに20ドル紙幣を置いて行ったんです。そして「両替してくれ」って言うんですね。店員がレジを開けたその瞬間、彼は銃を突き付けてレジのお金を要求し、それをふんだくって20ドル紙幣を置いたまま全速力で逃げて行ったのです。しかし、彼に奪われたのは15ドルでした。つまりこの強盗は5ドル損したんですね。犯罪は成功しましたが、それによって彼は結局損害を被っているわけです。
私にはこの事件がとても象徴的なもののように思えました。つまり、罪というのは結局人生をダメにする。一時的な利益をもたらしているように見えているものでも、相殺すると大損害を受けることになる。これが罪なのだと考えたのです。聖書もまた同じことを語っています。次のように語っているからです。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

ここから二つのポイントでお話いたしましょう。

嘘の実害

第一に、罪は一時的に儲かるようで実は損失の方がはるかに大きいという点です。
何年か前、私はとある来談者から「嘘の実害」について学びをいただいたことがあったのです。この方は、大変な不幸な生い立ちの方で、自分を守るために嘘も方便とばかり、まあ生きていくためには仕方がないと割り切って、巧妙な詐欺を働いてきた方であったのです。私自身話を聞いていて、あまりの見事な嘘のつき方に驚くばかりでした。
この方が私の目をじっと見て「高原さん、嘘をつき続けてきた人生を送ると、どんな不幸が待っていると思いますか」と尋ねられたのです。「いや、それは人から信用されなくなることでしょう」と言うと「いえ、逆です」と言われました。「人を信じることができなくなることです」と言うのです。「私のように日常的に嘘をついていると、きっと私の周りの全ての人たちも、私と同じようにして生きているに違いないと考えてしまう。そうすると、あの人もこの人も、私に嘘をついて生きていることになり、結局世の中で信じられる人が一人もいなくなる。信じれる人がどこにもいなくなることほど恐ろしい人生はない」と言うのです。
そして私に向かって「高原さんは、すでに私を信じてないでしょう」と言われたのです。心臓が止まるかと思いました。正直私は、彼女の話を聞きながら「この人どこまで信じていいのかなあ、この人の話大丈夫かなあ、盛ってないのかなあ、本当のことなのかなあ」というふうに考えが変わりつつあったからです。私はとっさに「いやいやいや、私はあなたの言ってることを信じてますよ」と言ったんですが「いえ、それは嘘です」と言われてしまいました。とても後味が悪かったことを覚えているんです。
また別のケースです。この方はまだ若い女性でした。モラル的に逸脱したことをしてお金を得ていた時期が過去にあったのです。この方は、何度も薬を大量に飲んで自殺未遂を繰り返しておられました。

罪はその人を滅ぼす

ところで私の小学校の時代に、とても嫌ないじめの遊びがあったんですね。ばい菌遊びと言っていたと思います。いじめの標的にされた子の体や服や持ち物にタッチしたら、その人は別の誰かにタッチすることでばい菌を乗り移らせていくことができるっていうわけですね。この忌まわしいいじめ遊びを、この方は自分自身に対してなさっていたのです。つまり、自分が触れる物はみんな汚れたものになるという考えに取りつかれていました。なので、スーパーに行って商品をいったん手にしたらその商品は汚れます。なので、一度手にした商品を棚に戻すことができないと言うんです。商品のパッケージを見て「ああ、これはいらないなあ」と思っても、それを必ず買わなければならないと言うのです。でないと、次にこの商品を手に取った人に汚れが乗り移るんだと言うんですね。
なぜそんなにも自分を汚れたものとして見下し、あるいは呪うのでしょう。自分が軽蔑していることを辞めることが出来ずにいたという過去があったからです。自分が軽蔑していることを辞めることが出来ずに続けているうちに、行為を軽蔑するだけではなく、それをしていた自分自身の存在そのものを軽蔑し、汚れ果てたものと考えるようになっていったのです。
私は、これらの具体的なお話を伺いながらつくづく思いました。罪は、罪を犯した人をどこまでもストーカーして、その人を滅ぼす力を持っているのだと思ったのです。しかし、最大の損害は死をもたらしたということです。神様との関係を切るということをバイブルは「罪」と言います。いのちの源であられる神と切断することですね。その結果、人は、神からのいのちも、祝福も、良きものを受け取り損ねている状態にあるのだというのです。
罪は、この地上で様々な実害を本人にもたらすだけではなく、死後の世界において、永久の滅びをもたらすのだと言うのです。

しかし永遠の命がある

第二に、「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちである」と聖書は語るのです。
実は聖書の中に頻繁に出てくる言葉に「しかし神は」というフレーズがあります。どんなに悲惨な前段があっても、ひとたびこの言葉が差し込まれると事態は良い方に急展開します。
私たちの日常でもそうではありませんか。「火事です。しかし、消防車が着いています。」「ガス欠です。しかし、ガソリンスタンドに着いています。」「財布を落としました。しかし、家の中でです。」「病気です。しかし、専門医が大丈夫だと言ってくれました。」
どんなに大きな問題も、解決者が「しかし、大丈夫だ」と介入したときに景色は一変するのです。「罪の報酬は死です。しかし神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」このキリストが罪と死を滅ぼすためにこの世界に来てくださいました。そして今から二千年前、十字架の上で罪の償いを果たし終え、墓に葬られたあと、三日目に復活することで死を滅ぼしてくださったのです。誰でもこのイエス・キリストを自分の主イエス・キリスト、自分の主とすることで、完全な罪の赦しをいただくことができるのです。それだけではなく、その人の内側にキリストが住んで、新しい人生を共に生きて歩んでくださるというのです。
本当に素晴らしい新しい人生のスタートは、イエス・キリストを心に受け入れることによって始まるのです。どうぞこのイエス・キリストをご自分の救い主として信じてください。心からお勧めいたします。
※聖書の読み間違いをお詫び致します。

使用CDジャケット
角谷憲太郎:神

今日のみことば
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)