#1173 罪がもたらす呪いと恵み

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

さて、聖書の中には、うっとりするような美しいことばが書いてあります。かと思うと、耳に痛くて辛くなるようなことばも書いてあるんですね。
その一つに、すべての人は罪を犯した罪人である、という内容のものがあります。ところが先日、私の講演会に来られた方は、この、人はみな罪人ということばに感心して、集会に集うようになったというのです。
実は彼のお仕事は、警備会社なんですね。セキュリティーの会社です。この方によると、世の中のシステムは、人間は罪人であるということを前提にできているというのです。彼曰く、例えば若い女性が深夜、街を歩いている時、もし襲われたなら「助けてー!」って叫んでもだめだっていうんです。家の中の人たちは表まで出てきてくれないでしょう。赤の他人の女性がどうなろうと、わざわざベッドから起き出して、介入してくれるような人っていうのはほとんどいません。めんどくさいのです。では、どう言えばいいんでしょう。「火事だー!家が燃えている。火が燃え広がっている」そうすると深夜でも、人は家から出てきます。自分の家の軒先が燃えているかもしれないからです。
トラブルが他人事ではなく、自分の問題になって初めて人は動くのだ、というんですね。まあ、それほどまでに人は自分のことしか考えていないっていうんです。だからこそ、すべての人は罪人であるという聖書のことばは、実に核心をついている、聖書は決してお花畑のことばではなく、現実世界に必要なことばなのだ、とわかったというんです。
そこで今日は、この方も感心した、その聖書のことばからみてみましょう。こうあります。

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

ここから罪が人間にもたらす、二つのものを考えてみましょう。

罪は的外れに生きること

第一に、罪は神からの祝福を受け損なわせてしまう呪いだということです。
ところで、ここで罪と訳されていることばは、ギリシャ語では、ハマルティアということばなんです。直訳すると、的外れ、という意味なんですね。
罪とは的外れである。あるところでそのようにお話しますと、一人の若者が「わかるわー」と言って後で報告に来てくれました。実は彼女はモスバーガーでアルバイトをしていたのです。ある時、サラリーマン風の中年男性がカウンターに来て注文しました。「昼マックセット。ビッグマックで」「当店では扱っておりません」と言うと「え、売り切れ?じゃあ、ビッグマック単品とコーラで」「いえ、当店はモスバーガーです」そこまで言われてようやく勘違いに気がついたのでした。彼はそそくさと店から出て行ったんです。モスバーガーでマクドナルドの商品を頼むなんて、的外れですね。的を外しているのは自分の方なのに、的外れに気づくまで、どうしてビッグマック売ってないのと、こちらを責めるような勢いでした。
的外れに気づかない的外れている人って始末に負えませんね。でも私も、神に対しては的を外していたんですね、と告白してくださったのです。非常に聡明な方だなと感心しました。ビッグマックを手に入れたければ、マクドナルドに行くべきです。モスバーガーに行って、マクドナルドの商品を探すのは、ナンセンスです。それと同じように、人生に良いものを手に入れようとするなら、良き方のところに行くべきなのです。
良き方とは誰でしょう。あなたをお造りになった創造主なる神です。この祝福の源である神から離れて、神しか与えることのできない平安や、罪の赦し、永遠のいのち、天国の国籍、神の子の立場、人生の目的を探すのは、不毛の努力です。
神という的から離れて生きること、これを聖書は罪と語っています。神から離れることは、祝福から離れることなんですね。

神は人に恵みを注がれる

第二に、罪は神の心を揺さぶって、神は人に恵みを注いでくださるということなんです。
神から離れた結果、人間に及んだ不幸は自業自得です。しかし神は罪の結果に苦しむ人を見て、心を動かさずにはおれない方なんです。そして救いのために行動せずにはおれない方なのです。
神奈川県の大磯というところにエリザベス・サンダース・ホームという社会福祉法人があります。今は児童福祉施設となっていますが、もともとはクリスチャン女性であった澤田美喜さんによって設立された混血孤児のための孤児院でした。
戦後日本占領のためにやって来たアメリカ兵と日本人女性の間に、約五千人の混血孤児が生まれたのです。今ではハーフといって珍しくなく、むしろもてはやされるほどですけれども、戦後間もない日本では、日本を占領した敵国の子どもとして実にひどい扱いを受けたのです。この五千人の混血孤児のうち、二千人が澤田美喜の作ったエリザベス・サンダース・ホームで成長しました。

恵みは神からの一方的な愛

ところで一体どうして彼女は、この事業に一生を捧げるようになったのでしょう。
彼女の息子さんは特攻隊の生き残りです。そして京都大学に復学することになりました。それで京都に下宿を探すために東海道のすし詰め列車に乗ったんです。そこに、やみ物資摘発のため車内を回っていた警官の目に留まったのが、澤田さんのすぐ上の網棚に置かれていた風呂敷包みでした。
包みを開けろ、と警官は澤田さんに命じます。それは彼女の物ではなかったのですが、命じられるままにその包みを開くと、そこから出てきたのは、生後間もない赤ちゃんの死体だったのです。しかもその赤ちゃんは、黒い肌をしていました。警官と乗客の目は澤田さんに注がれました。黒人兵との間にできた子どもを殺して捨てようとしたに違いないとみられたのです。しかし一人の老人の証言で疑いは晴れたのです。
この時心の中に、響く思いが湧いてきたというのです。あなたはたとい一時であったとしても、この子の母とされたのであるなら、なぜ日本中のこうした子どもたちのためにその母となってやれないのだろうか。彼女はそれを神からの語りかけと捉えて、この混血児救済事業に一生を捧げる決心をしたのです。
本当のお母さんに抱いてもらうこともできず、列車の網棚に置き去りにされた赤ちゃんを見た時、彼女の心は激しく動いたのです。この子に罪はありません。しかし神は、罪人がみじめにもがく姿を見過ごしにできず、とうとうイエス・キリストを遣わして、私たちの罪の責任を彼に負わせたのです。この神の側からの一方的な愛の行動を、恵みというのです。罪が深ければ深いほど、恵みは満ち溢れました。
どうぞ、あなたのために、喜んで救い主となって来てくださったイエス・キリストを信じて、永遠のいのちを受け取ってください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
レーナ・マリア:我をも救いし

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

今日のみことば
(ローマ3:23-24)