#954 悔い改めと信仰

メッセンジャー似顔絵

おはようございます。高原剛一郎です。

ところで、日本では交通事故で亡くなる方は年々確実に減っているのですが、かわりに「あおり運転」が年間7000件以上あるということが、ニュースになっていました。
あおり運転とは、後ろから極端に車間距離を詰めたり、理由もないのにパッシングしたり、前に回って急停止したりする危険運転のことです。
私はこういう記事を見ますと、昔読んだ英語のリーダーの中に出てくる話を思い出すのです。
ある女性が友人との外食を終えて、車で家路を急ぎます。すっかり深夜になっているので高速道路を飛ばすのですが、後ろから猛烈な勢いで車が追い上げてくるのです。
走行車線に寄せるのですが、一向に追い抜こうとしません。それどころか付け回すのです。
後ろから突然ライトを浴びせたり、クラクションを鳴らしたりします。明らかにあおり運転ですね。
彼女はハンドルを握りしめて全速力で逃げ切ろうとします。自分が下りるインターチェンジの直前まで、スピードを落とさず、急ハンドルで出口に向かって振り切ろうとするのですが、後ろの車は驚異的なテクニックでついてくるのです。
恐怖でいっぱいになりながら、ようやく赤信号で車を停めると、すぐに後ろにいた車から目の吊り上がった男が駆けて来るのです。
そして後部座席に向かって「降りろ」と叫ぶのです。なんとそこには、見知らぬ男が乗り込んでいるではありませんか。
しかもこの男は、斧を持っていたのです。狂気の斧男が自分の車に乗り込んだのを誰かが通報し、一番近くにいた私服刑事が駆けつけてくれたのでした。
つまり、後ろにぴったりつけた車は、あおり運転ではありません。
彼女が厄介者扱いしていた車は、彼女を救うために駆け付けた、警察の車両だったというのです。

カット

救い手を勘違いしていた

神のことを勘違いしていないか

時々、神とか聖書とかいうと、とても面倒くさいもの、鬱陶しいもの、自分とは関係のないものとして、逃げ出したくなる方がいらっしゃいますね。実は私もそうでした。
それは、私を縛って不幸にするために付け回すストーカーのような存在だと、神のことを勘違いしていたからです。
しかしそれは全くの誤解です。神様はあなたの人生の中に乗り込んでいる、不幸の原因、罪と死をあなたから切り離すために駆け付けて下さっている方なのです。
聖書の中に次のように書かれています。

ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。

これはパウロという人のことばです。ここには福音の二つの要素が明言されています。

収容されている友人

第一に、神に対する悔い改めです。私たちの造り主を無視して生きる人生を、聖書は罪と語ります。
そしてこの罪を悪として認め、それを憎み、神に向き直ることを、聖書は悔い改めと呼ぶのです。
昔アメリカのケンタッキー州で、大きな貢献を果たしたルシアンという人物がいました。彼は人々から大いに尊敬されていたのです。
ある日ルシアンは、彼の幼なじみのサムが刑務所に入っており、しかも刑期がまだ8年も残っているということを知るのです。
それで面会に行き、旧友と2時間も話します。それは青春時代を思い起こす至福の時間でした。
それから一月後、ルシアンは州知事を訪問し、旧友のために恩赦を願い出るのです。
州はかねてからルシアンの今までの活動に、何らかの報いを与えたいと願っていました。彼はそれを、旧友の釈放のために用いたいと願ったのです。
「もし恩赦されたなら、自分がサムの身元引受人となり、自分の会社で雇い、自分の家に住まわせそこから会社に通わせるつもりだ」、とまで州知事に申し出たのです。

赦しを受け取るためには悔い改めが必要

知事はその熱意に動かされ、特赦状を出すことにしました。
ただし条件が一つあります。もう一度ルシアンがサムと面談して、彼の意思を確認するということです。
ルシアンは刑務所に直行し、サムに朗報を伝えました「サム、ここから出たら、僕の会社で働かないか。刑期が満了する前にここを出られる可能性があるんだよ」。
しかしそれを聞いたサムはしばらく考えて、「それは断る。ここを出て、私が最初にすることを、私はもうずっと前に決めているんだ。俺を有罪にした裁判官と、決定的証言をしたやつらを見つけ出して、素手で殴り殺してやるのだ」。
ルシアンは直ちにそこを立ち去り、知事からの恩赦状を破棄したのです。彼は今までの間違った生き方を変えるつもりが、全くなかったからです。
聖書の福音は、ギリシア人にもユダヤ人にも、立派な人にも、極悪人にも、等しく提供されている赦しのメッセージです。
しかしそれを受け取るためには、神を無視して自己流の生き方を貫いてきたことを罪として認めて、それを神に詫びる、態度の変化が必要なのです。
これを神に対する悔い改め、というのです。

初めてハワイを訪問した時のこと

第二に、悔い改めた人は、イエスを自分の救い主として信じることです。
人は自分で自分を救うことはできません。だからこそキリストは人ができないことを、かわりにして下さったのです。
あなたの罪を、あなたに代わって、ご自分のいのちで償って下さったのです。
私は今から十数年前、生まれて初めてハワイに行きました。そして到着初日、大けがをしてしまったのです。
ポケットにシャープペンシルを芯の出る方を上にして入れていたのです。
そのポケットに右手を勢いよく入れた時、ペン先がくすり指の爪の間にざっくり突き刺さってしまったのです。それで爪の間に折れた芯が、入り込んでしまったのです。
次の日、私はクリスチャンドクターのクリニックにおりました。ドクターはとても冷静な方でした。
そして私に言ったんです。「どの部分が特に痛みますか?」
私は問題の傷口を指さしました。すると彼は麻酔を打ってくれました。そして私の爪をはがしにかかったのです。
私がそれを見ていると、言いました。「見ない方がいいですよ。代わりにあれをご覧になったらどうでしょう」。
手術室の壁には、幼子がキリストに歓迎されて、抱きしめられている絵が掛かってあったのです。
その絵があまりにも恵みを連想させるものであったので、私はしばしのひと時、絵画鑑賞をしたのでした。
そしてそのうちに「はい、終わりましたよ」と言って下さったのです。
今振り返ると、あの一連の治療風景は、深遠な真理を表しているように思えてくるのです。まず傷口を見なさい、そして次にはキリストを見上げなさい、という真理です。

救い主イエスを見上げる

私たちはまず自分の罪という傷口と向き合い、その罪を悔い改める必要があります。
しかしいつまでも自分の過去を、くよくよ悔やみ続けることが神さまの御心なのではありません。
悔い改めたならば、次は救い主イエス・キリストを見上げるのです。
あなたの罪のために、キリストが十字架にかかって下さったこと、墓に葬られて下さったこと、そして死後三日目に復活して下さったことを信じるのです。
これを主イエスに対する信仰、というのです。その瞬間、あなた自身に罪の赦しが及ぶのです。
どうぞあなたも神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰を神に求め、受け入れて下さい。心からおすすめします。



Migiwa:私を赦すために

今日のみことば
ユダヤ人にも、ギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。
(使徒20:21)