ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
ところで短歌には、上の句と下の句がありますね。両方そろって完結するわけです。ところが多くの選挙公約の場合、上の句だけがあって、下の句は言わない場合が多いように思うんですね。ある政党は「消費税5パーセントに引き下げ」と言います。ま、税が半分になっていいですね。しかしそれを言う以上、「では、年間10兆円以上の代わりとなる財源はこれです」という、下の句を言うべきなのですがそれは触れません。「原発反対で全部止めます」、これも一つの見識ですね。でもそれを言うなら、「再生エネルギーで足りない分は停電で我慢するんですよ」と言うべきですが、それも言いません。この点、アメリカの政府は正直です。アメリカのニューハンプシャー州では、州の税金をゼロにする、撤廃するという、そういう動議が出されました。では、財源はどうするのでしょう?なんと、消防署を全部廃止したというのです。「州は税金を取りません、そのかわり火事になっても自分で消しなさい」ということを州民投票で決めたんですね。良いことを提示するなら、それが通ったときに、何をあきらめなければならないのかということも提示すべきですね。そしてそれをしないのは、不誠実なことだと思うのです。
聖書の上の句、下の句
ところで聖書は、最初に悪いニュースを語ります。人が聞きたくないし、思い出したくもないようなことを上の句にもってくるんですね。しかし下の句には、その解決策が提示されるのです。それは次のように語られているからです。
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
上の句から考えましょう。人はみな死にます。それは、人が神の御前に罪を犯しているからだ、というんですね。では罪とは何でしょう。神との関係を切って生きることなのです。私たちの作者であり、私たちが生きていくのになくてはならないものすべてを備えてくださった創造主のことを、聖書は神と語っています。私たちはみな、この創造主に生かされて存在しているんですね。
毎朝夜明け前に起きて、「おーい、宇宙。今日も太陽を動かすのを忘れるなよ」と注意をうながさなくても、日はまた昇ります。海のことなんか忘れていても、潮はちゃんと満ち引きをくり返しています。子どもに教えなくても、子どもの体はひとりでに成長していきます。咲き方セミナーなんか開催しなくても、時が来れば花は咲くのです。いちいち心配しなくても、惑星は規則正しく運行します。人間が思い煩わなくても、この宇宙の中では驚異的に複雑な作業が、信じられないような巧みさで行われているんですね。
人の意志や努力を超えた偉大なる何かが、私たちを生かし、また存在させているのです。そしてこの偉大なる何かこそは、創造主なる神なのです。その創造主との関係を、打ち切ること、このことほどまずい選択はありません。これは人にとって自殺行為です。
猶予期間は限られている
私が大学生であったころ、地方から出て来た人と知り合いになりました。体育の授業で同じになったのをきっかけに、急速に親しくなったんですね。
ところが二、三ヶ月すると、ぱったり大学に姿を見せなくなりました。何か悩みでもあるのかと、同じ学科の人にきいてみると、なんとパチンコにはまってしまって朝から晩まで打ち続けているというのです。「そんなに裕福でもないのに、いいご身分だな」と言ったら、実は彼には、とある企業からの返済不要の奨学金が支給されていたんですね。
彼の出身地から出た創業者が、地元の若者を支援するために、当時としてはとても高額な奨学金を提供してくれていたのです。都会に出て来て、自由になって、お金もある。面白半分でつい始めたパチンコで負けがこみ始めると、なんとか取り戻したいという気持ちが走ってしまって、彼はパチンコ三昧の生活になってしまったのです。
しかしやがて一年が過ぎると、成績証明書を支援者の企業に伝えなければなりません。単位は落としているし、出席日数がそもそもない彼は、たった一年で奨学金を打ち切られることになってしまいました。創業者の善意を、ギャンブル狂いで裏切った結果、彼は困り果てることになったのですね。学業を続けることができなくなったのです。パチンコに狂ってすぐに奨学金がストップしたのではありません。一年間は猶予期間のようにして、彼はどちらを選ぶこともできたんです。しかしそれはいつまでも続く猶予期間ではなかったのです。
キリストにより得られる永遠のいのち
神から離れていても、神は私たちに人生という猶予期間を与えてくださっています。しかし、いつまでも私たちは生き続けるのではありません。祝福の供給源と切れた結果は、死と死後のさばきです。そしてこれが上の句なのです。しかし下の句がそれに続くんですね。
しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
どんな力持ちの人でも、自分で自分を持ち上げることはできませんね。死という底なし沼に沈んでいく自分自身を、自分の腕力で持ち上げて、外に引きずり出すことはできないのです。そこで神は、私たちの罪と死の問題を解決するために、神のひとり子を救い主として、この世界に送ってくださいました。その方こそは、イエス・キリストです。キリストはあなたの罪が赦されるために、必要なことをすべて、やり遂げてくださいました。
罪の結果人が受けるべき処罰を、キリストはご自分の身に背負って、そして死んでくださったのです。あなたの罪を、永遠のかなたにまで持ち去ってくださいました。そして死後三日目によみがえり、死を滅ぼした救い主として、復活してくださったのです。だれでもこのキリスト・イエスを自分の救い主として信じるなら、すべての罪が赦され、そして永遠のいのちをいただくことができるのです。
神への疑いをやめ、信じる
先日入った蕎麦屋さんに、面白い標語が張り出されていました。「減らして増やすとうまく行く」という標語です。
「話すことを減らして、聞くことを増やす。計画を減らして、行動を増やす。ジャンクフードを減らして、栄養あるものを増やす。心配することを減らして、希望の約束を増やす。怠慢を減らして、運動を増やす。疑うことをやめて、信じてみる。」
この最後の一言が私の心に響きました。すべての罪は神を疑うことから始まりました。神への疑いをやめる。そして、いのちまで捨ててくださったキリストを信じてみる。ここに解決の道があるように思います。どうぞこのイエス・キリストを、ご自分の救い主として信じ受け入れ、永遠のいのちをいただいてください。
心からお勧めいたします。
(ローマ6:23)