#1149 逆転人生の再逆転

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

先日新聞の投書欄で、自動車教習所に通っていた人の感想が書いてありました。教官が最後に言った言葉がとても印象に残ったと言うのです。
「みなさんは、本来所有してはならない凶器の扱い方をここで学びました。車は便利な乗り物と言うより、殺傷能力の高い凶器で、本来所有が禁じられていると考えてください。本当は持てない物なのだけれども、特別に持てるようにと与えられた物が、運転免許証と思ってください。」
「教官、それは逆転の発想ですね。」と言うと「これを逆転の発想と思うことが逆転していますよ。」と返されたそうです。「自分の世界観が正されたような気がする。」としめられていました。
私はそれを読みながら学生時代に読んだ短編小説を思い出したのです。それは、小松左京というSF作家の書いた『骨』という小説です。
とある田舎で、湧水を利用していた男が、井戸職人に頼んで井戸を掘ってもらうことにするのです。ところが職人は「旦那、悪いものが出てきやしたあ。」って言うんですね。人骨が出てきたんです。しかし、興味を持った男は「まあまあそう言わずに、もうちょっと深く掘ってくれないか」。そうして掘ってみると中からナウマンゾウが出てきたり、遺跡が出てきたり、まあとにかく骨が出るわ、出るわ、ザクザクといろんな骨が出て来るんですね。
ところが不思議なことに、掘り進めば掘り進めて行くほど、時代が新しくなっていくのです。深く掘るにしたがって、中世、戦国時代、近代、現代、と出てくる骨が今の時代に近付いて行く。普通は下の地層に古い時代があるはずなのに、下に行けば行くほど新しい骨が出てくる。「いったいこの世界はどうなってるんだ!上下が逆転している狂った世界ではないか!」と言って、とうとう一番深いところまで掘ってみると、そこは日の光輝く地表だった。その地表の風に触れてこの男は一瞬にして骨になってしまった、というストーリーなんですね。
実はこの男は、土石流に流されて、地面の奥深くに埋められていた人でした。自分は地下に向かって掘ってるつもりが、自分の方が地下にいたのだというオチなんです。下にいるものが上にいると思って、そういう世界観で見ると、上にあるものが下に見えますよと言うんですね。
とても印象に残ったのは、その当時、神を信じるかどうか私の中で葛藤があった、そんな時期に読んだからです。単純なものが複雑に見えたり、世界がすべて敵に見えたり、あるいは生き辛くなったりするのは、もしかしたら世界観に大きな問題があるからかもしれません。

世界は神中心

実は中世の教会は、聖書を基にした世界観ではなく、古代ギリシャの哲学者、アリストテレスの宇宙観にたって、世界や宇宙を理解していました。アリストテレスの宇宙観は、地球が中心で、その周りを太陽系の惑星が回っているというのです。その理解に立つと、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星、これらの星々の軌道がすさまじく複雑になります。そしてなんと、80以上もの円運動を組み合わせなければ、星々の出現を説明することができなくなったんです。
この計算をしたのは、13世紀の学者アルフォンソ10世という人物ですが、彼は「もし神が私に相談してくださったら、もっと単純な宇宙を創造するように申し上げただろうに」と言ったと伝えられています。
しかし、複雑に見えたのは天動説に立って宇宙を見ていたからです。本来中心ではないものを中心に据えて見たので、シンプルなものが複雑怪奇なものに見えてしまっていたというんですね。
ところで私たちはどうでしょう。自分自身のことを振り返ってみると、うまく行ったら「私の努力の結果であってそれは当然」と思い、うまくいかなかったら「いったい神はどこをご覧になってるんだ」と思ったりします。その逆を考えることはめったにありませんでした。世界は私がうまくいくために存在していると考えると、うまくいかないことが起こる度に、敵だらけの世界に見えてきてしまうのです。
しかし、世界の存在目的は神です。世界の中心は神です。実はこの世界は、神が栄光を現わすためにお造りになられたものです。そして、あなた自身も神の栄光の現れとして造られたのです。神などいないという人生観にすっかり染まってしまうと、神がいると聞くとなんだかばつが悪くなったような心境になりますね。しかし神は、あなたを愛して造ってくださったお方なのです。

わたしが道です

さてイエス・キリストはこのように語られました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。

ここでキリストは二つのことを語っています。第一に、神と人との間には大きな隔たりがある、父のみもとに行くことができない大きな大きな隔たりがある、そのように仰っているのです。この隔たりは自己中心という罪です。罪という断崖絶壁の谷間があるために、人は自分の力でジャンプして神の所に行くことができないと語っておられるのです。しかし、二つ目にこのように仰いました。「わたしが道です」。

100%完全な懸け橋

ところで、あなたと神の間にグランドキャニオンのような谷があったとします。
あなたはその谷を越えて向こうに渡ろうとします。向こうまでの距離は30m、断崖の高さは1500mです。さてあなたの手元には、数トンの重さに耐えるような、太さ3cmの太いロープがあるのですが、困ったことに15mの長さしかありません。
さて、そこに私がやって来て提案します。「いやあ大丈夫ですよ。私はここに15mの糸があります。あなたの15mのロープと私の15mの糸を結び合わせて、両端を繋ぎ合わせたら向こうまで渡れますよ。」
あなたはその話に乗りますか。もちろん断りますよね。ロープは重さに耐えれても、糸ではとてももたないからです。では、ロープが29mで糸が1mでしたらどうでしょう。それでもアウトです。ではロープが29m99cmで糸が1cmでしたらどうですか。だめです。少しでも弱い部分が含まれていたらそれでおしまいです。ロープは端から端まで純度100パーセント、全て完全でないとだめなのです。
キリストは、神がお調べになっても非の打ち所のない完全な人生を歩まれました。全く罪のない神の一人子、それがイエス・キリストです。このキリストがあなたの懸け橋となり、あなたと神を繋ぐ道となるので、あなたはキリストという道を通るならば、父なる神様の身元に安全に行くことができるのです。
あなたの行いが少しでも頼りになることはありません。なに一つ良きことがなかったとしても、何一つ欠けのないキリストの故にあなたは救われるのです。どうすればよいでしょう。造られた道に踏み出すことです。イエス・キリストを救い主として信じることです。
どうぞ今、イエス・キリストを信じて、そして父の御許にお帰り下さい。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
大和田広美:ああ 愛されて

今日のみことば
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。
(ヨハネ14:6)