#1001 天国は存在する

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。尼川匡志です。

昨年末に、私の大好きなクリスチャンのKさんが、病気で天国に帰られました。
私は亡くなられる少し前に、病院にお見舞いに行ったんです。
Kさんは少し苦しそうでしたが、それでも「あぁ、よく眠っておられるなぁ」という感じでした。
気にはなりましたが、病院を後にしたんです。二日後、Kさんは天国に帰って行かれました。
私はKさんが亡くなったときも、お顔を見ていません。ですから彼女が住んでいたマンションを訪問すれば、何となくまた会える気がして仕方がありません。
私は「あぁ、もう一度会いたいな」と思います。でも、こう確信しているんです、「私が死んだら、天国でKさんと再会できる」。そしてこの確信が、私の希望なんです。

聖書は天国があると語る

昨年は、樹木希林さんや星野仙一さん、津川雅彦さん、さくらももこさんといった各界の著名人がずいぶんお亡くなりになりました。
告別式で弔辞が読まれます。最近その中に、天国ということばをよく聞きます。
弔辞を読まれる方のほとんどは、天国を信じておられないと思いますが、「天国で楽しく過ごしていると思います」と言われたりするんですね。
それは、少しでも悲しい心を慰めたいから、ではないかなと思うんです。
聖書は、人間は死んで終わりではない、永遠のいのちも天国もあるんだ、と語っています。
これは気休めなんでしょうか、それとも真実なんでしょうか。このことを考えるために、パウロについて3つのことを考えたいと思います。

クリスチャンを迫害していたパウロ

一つ目は、パウロはどんな人間だったのかということです。
今から2000年前のイスラエルは、ユダヤ教にとても熱心な国でした。
その中でも、最も熱心な人のグループをパリサイ派と言いました。その最右翼の一人がパウロです。
彼自身が自分のことをこのように表現しているんですね、「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエル民族、ベニヤミン部族の出身、へブル人の中のへブル人、律法についてはパリサイ人、その熱心については教会を迫害したほどであり…」と。
彼は、伝統的ユダヤ人として誇りを持っていたし、ユダヤの神に熱心でした、ということを言っています。
そしてその熱心は、教会を迫害したほどだと語っているんですね。パウロはユダヤ教を信奉する者として、クリスチャンの言っていることが、どうしても許せなかったんです。
神が人間イエスになった、とか、そのイエスが十字架にかかり死んだ、とか、三日目に復活して今、神として天にいる、とか。パウロにはこれが神への冒涜であり、万死に値すると考えていたんです。
彼は考えるだけではなくて、それを実行し教会を大迫害しました。ですから、イエスに魅了され、三年半行動を共にした弟子たちとは全く違う人間です。
彼はある時、このクリスチャンを捕縛し、エルサレムの牢獄に放り込むためにダマスコという町に出かけて行くんです。

復活したイエスとの出会い

二つ目のことを考えます。パウロはなぜ変わったのかということです。
このパウロに、何かとんでもないことが起こったんです。だから彼は新約聖書の多くの書簡を書きました。
パウロはこのように言っています。「私が道を進んで、真昼ごろダマスコの近くまで来たとき、突然、天からのまばゆい光が私の周りを照らしました。
私は地に倒れ、私に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、どうして私を迫害するのか』。
私が答えて、『主よあなたはどなたですか』と言うと、その方は私に言われました。
『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである』」。
サウロとは、パウロのことです。彼は否定する余地のない現実として、天におられる復活したイエスに出会ったんです。クリスチャンの言っていることは、本当だったんですね。
パウロは自分の考えを放棄する以外ありませんでした。イエスは神であった。
ではその神が、なぜ十字架という屈辱的な死で殺されなければならなかったのか。このことをパウロが理解するには、もう少し時間が必要でした。
しかしイエスが復活し、死は終わりではない事実の前に、迫害者パウロは屈服せざるを得なかったのです。

死後の天国への希望

三つ目は、パウロが持っていた死生観と天国についてです。
パウロはこのように言っています。「私にとって、生きることはキリスト、死ぬことは益です。しかし肉体において生きることが続くなら、私の働きが実を結ぶことになるので、どちらを選んだら良いのか、私には分かりません。私はその二つのことの間で、板挟みとなっています。私の願いは世を去ってキリストとともにいることです。その方がはるかに望ましいのです」。
パウロは「死ぬことを覚悟しています」とか、「死んでも本望です」と言ったのではありません。「益だ」と言ったのです。
天でキリストとともにいる方が、はるかに素晴らしいじゃないか、と言うんですね。
パウロは、はっきりと天国を見据えていました。私は、死んで天にいる方が素晴らしいけれども、地上にやることが残っているから、その板挟みとなっているのだと言っているのです。
別の個所ではこのようにも語っています。
「もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人たちの中で一番哀れな者です」。
死の絶望をごまかすために、ありもしない天国を妄信しているのなら、クリスチャンはすべての人の中で一番哀れだと断言したのです。
この逆説的なことばの中に、パウロの強烈な確信を見出すのです。
復活のイエスに出会い、天国の存在を知り、人間は死んで終わりではないとパウロは言い切るんですね。
クリスチャンがもともと大嫌いで、迫害し、殺害していたパウロが、完全に変えられたこのことの中に、天国の存在の確かさを見出します。
そしてそれを知るとき、本当に死は絶望ではなく、希望になるのです。
ぜひあなたも天国を信じる道をお選びください。


使用CDジャケット
竹下静:深い河を越えて

今日のみことば
私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。
(ピリピ1:21)