ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
ところで私の知り合いに、人を励ます天才がいます。彼女のもとを訪れる人は、不思議な元気をもらって帰って来るんですね。いったいその秘訣はなんなのかと見ていますと、要するに、その人のいい所を見つけるのが天才的なんですね。本人も気づいていないその人のいい点を、彼女は実に的確に見つけ出して、そしてそれを伝えてあげるのです。この方を通して教えられるのは、人のいい所をいっぱい見つけると、見つけた人が幸せになれるということです。というのは、いい所を持ってる人に取り囲まれて生きているということになるからです。能動的に人を愛する人が、愛を受動するということなんですね。
さて聖書の中に、次のようなことばがあります。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
ここから三つのポイントでお話いたしましょう。
神の愛は能動的
第一に、神の愛は能動的な愛です。神を愛さず、むしろ神を憎み、神から離れていく罪人に対しても、神は愛することをお止めにならないというのです。ある人がキャンプファイヤーの薪に火をつけると、何かがうごめいているのが見えました。なんと丸太にはさまれて動けなくなった蛇が、煙と火で苦しんでいるのです。ひとりの青年が、手でつかんでそれを引っぱり出してやろうとした瞬間に噛みつかれてしまったんですね。再度手づかみをしようとして、また噛みつかれました。三度目ようやくつかんで引っぱり出してやったんです。そばにいた人が言いました。「自分に傷を負わせるような蛇を、どうしてそこまでして助けるの?」。すると彼は答えます「自分の頭をつかみに来る者に噛みつくのは蛇の習性です。だれも蛇の習性を変えることはできません。でも苦しんでいる自然の生き物を助けるのは、僕の習性です。だれも僕の習性を変えることはできません」。どんなにひどい罪人をも愛するというのは、神のご性質です。そして神のこのご性質を変えることができる人は、だれもいないのです。神は罪人をも愛することをお止めにならない方なのです。
愛の証としてキリストがいけにえになった
第二に神は愛の証しとして、私たちの罪のために、ご自分のひとり子イエス・キリストを十字架の上でいけにえにしてくださったことです。今から一ヶ月少し前、日本のゴスペルシンガー小坂忠さんが天国に召されました。私も何回かこの方の生ライブを見たことがあるんですが、元エイプリルフールのボーカルで、日本のR&Bの草分け的存在でしたね。しかし娘さんが2歳のときに、事件が起きます。よちよち歩きでお祖母ちゃんが調理している台所にもぐり込み、テーブルに手を伸ばしたんです。そこには火から下ろしたばかりの、グラグラ煮たった熱湯の入った鍋がありました。それに手をかけて引いてしまったがために、全身に熱湯を浴びることになったのです。台所は湯気で真っ白、そして叫び声が響きます。すぐに水で冷やして、救急車で病院に運び込みます。ナースが様子を見るために、ゆっくりTシャツを脱がせようとすると、皮膚がベロっと付いてきたといいます。やけどの専門医は、彼女のズルむけ状態の皮膚の上に豚の皮膚を置いて、そして全身ミイラのようにぐるぐる巻きにしたそうです。もし皮膚が乾いてしまうと、皮膚の再生はなくなります。ひと月の間、ただ包帯を巻いて見守るだけなんですね。その間、父親として彼が考えたことは、娘のために自分ができることは、どんなことでもやろうということでした。あるとき、奥さんのおばあさんが訪問して来てくれたそうです。そして聖書を読み、祈ってくれました。実はこの方はクリスチャンだったんですね。そして「あなたたちも教会へ行って、祈ってもらいなさい」という風にすすめられたそうです。娘のためにできることは、何でもやると決めていましたので、近所の小さな教会へ飛び込み、そしていきさつを説明しますと、皆さん熱心に祈ってくださったというのです。赤の他人のために、何でここまで熱く祈れるんだろうか、と感動したようですね。さて、とうとうその一ヶ月が経ちました。一回目の経過観察です。包帯を取ると、なんと完治していたんですね。見事に、たった一回で。友人たちは「さすが子供の再生能力はすごい」「子供の生命力はすごい」という風に言ったのですが、しかし小坂さんの頭をよぎっていたのは、「そうじゃない、あのクリスチャンたちの祈りを、神が聞いてくださったのだ」ということであったのです。これがきっかけで、家族で教会に行くようになりました。ある日のこと、キリストの十字架のメッセージがあったそうです。そのとき小坂さんは、ふと考えてしまったんです。「神はなぜ、十字架のイエス・キリストを助けなかったんだろう?私ですら、娘が苦しんでいるときには、できることはなんだってやろうと走りまわった。神様は全知全能で、何だってできるのに、どうしてその全能の力を使って十字架のイエス・キリストを助け出さなかったんだろうか。冷たいんじゃないか」。しかしそのときイエスの十字架と、自分の罪がつながったそうです。「神は私の罪を赦すために、イエスを十字架のさばきから救わなかった」と、分かったのです。「キリストを助けようと思えば、すぐに助けることができたのに、こんな私を救うために、キリストの方を見捨ててくださったのだ。それは私のためだったのだ」と分かったとき、「なんて私は神に愛されているんだ」と、泣けて泣けて仕方がなかったそうです。キリストの十字架は、あなたのために行われた救いのみわざなのです。
ここに神の愛がある
第三に、ここに愛があるということです。私の友人の中に、家電製品を買うのに、最低一年間かける方がいるんですね。一年間性能を検討し、調べ尽くし、ベストなものだけを購入するっていう風に言うんですね。まあ、こだわりの一品を選び取るために、考えに考え抜くというわけです。「お金を出して自分のものにするんだから、少しでも良い物を買おうとするのは、当たり前のことです」という風におっしゃっていました。ところで、神は、金銭ではなく、ご自分のひとり子イエス・キリストという代価を払って、人を罪から贖い出してくださったのです。私はこのことに思いを潜めると、力が湧いてきます。神はいいものを得ようとして、最も良い方を十字架につけてしまったというより、私のようにどうしょうもない悪い奴を、最大の価であるイエス・キリストによって贖ってくださった。イエス・キリストによって、この私を神は救ってくださった。それを思ったとき、これが愛でなくて、何が愛だろうと思うのです。神はあなたにも呼びかけておられる方です。あなたを愛して、御子をすら惜しまずに、捨ててくださった方、そしてよみがえらせてくださった方、それがあなたの造り主です。
どうぞあなたもご自分の救い主として、イエス・キリストを信じ、受け入れてください。心からお勧めいたします。
(1ヨハネ4:10)