ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
ところで、雪を見たことがない人に、言葉だけで雪を説明をするのは難しいですね。人生の中で経験したことがないものをイメージするというのは、誰にとっても困難なことです。そしてそれは神を信じるということについても言えますね。何しろ神を見る経験をした人は誰もいません。ですから、見たことがない神をイメージするというのは難しいんです。しかし、聖書は人が神のことを分からないのは、ただ見えないからだけではないと言うんです。次のように聖書は語っています。
愛のない者は神を知りません。なぜなら神は愛だからです。
人が神を分からないのは、その人に愛がないからだと言うのです。では、愛とは一体なんでしょう。聖書に次のように語られています。
愛は寛容であり、親切です。また人をねたみません。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して耐えることがありません。
さてここから3つのポイントで、人となられた愛そのものである方、イエス・キリストを考えましょう。
愛は妬まない
第1に、愛ゆえにキリストは一切妬みがない方でした。なぜ妬まないんでしょう。愛だからです。「愛はねたみません」とある通りです。
私が小学生の頃、学校から3枚だけ水彩画の作品を出品できるというコンクールがあったんですね。最後に残った4枚候補のうちの1枚は、私の作品だったのです。しかし私の1枚は落とされ、友達の3枚が大阪の美術館に展示されたんです。私は自分の作品が採用されなかったその晩、布団の中で忍び泣きに泣いたことを覚えています。悔しかったんですね。
ところで、息子が中学になると彼は彫刻に目覚め、次から次へと奇抜な作品を作っていったんです。そして展覧会という展覧会に出品され、とても高い評価を受けたのです。彼が出品してもらった作品展の中には、私が落選した展覧会もありました。その時、私は息子に対して妬みで腑が煮えくりかえったでしょうか。いいえ、誇らしくてたまりませんでした。嬉しくて嬉しくてたまらなかったんですね。どうして妬まなかったんでしょう。我が子を愛していたからです。
愛する人が成功するのを見るのは、自分が成功するように感じられることです。だから、愛は妬みません。キリストは妬みと無関係の生涯を送られました。それはキリストが人を愛しておられたからです。キリストはあなたが祝福されること、成功すること、成長することを、自分のことのように喜ぶ方なのです。なぜなら、キリストは愛そのものの方であるからです。
親切が与える幸せ
第2に、「愛は親切です」とありました。藤本利一さんの書いたエッセイのなかに、小学4年の男の子の作文が掲載されていました。少年の父親はひき逃げされて死亡し、補償金もまだ出ていない状態で、お母さんと少年の2人暮らしが始まるのです。母親は近所の漬物屋でパートを、夜遅くまで働きながら、家に戻ると内職の仕事をします。そのようにして生計を立てていたのです。
ある時少年は、学校の課題で夏休みに1番嬉しかったことを作文に書くことになりました。父親がいない初めての夏休みです。寂しいことしか思い浮かばない夏であるはずです。しかし、彼は次のように書いたんです。雨上がりの窓の下で工作をしている自分のすぐ後ろで、お母さんが内職の針仕事をしている。その時に西の空が夕焼けに真っ赤に染まったんですね。「お母ちゃん。夕焼けや、綺麗やわ」と言うと、母親は仕事の手を休めて自分の横に並んで座ってくれたと言うんです。その2人の時間は、夕日が完全に沈み切るまで30分以上あったそうです。生活費の捻出のために1分1秒でも惜しんで、針仕事をしたいという気持ちもお母さんの中にはあったことでしょう。しかし、お母さんには息子が感動しているものに共感して、その時間を共有するために仕事を中断したいというその思いが勝ったんです。そしてその親切は、金では買えない幸せをこの少年に与えたんです。
キリストの親切な愛
ところで、日本語の”親切”というのは、親を切ると書きますね。なぜ親を切ることが親切なんでしょう。実は親切の”親”は、”親しい、身近に接する”という意味があるのです。そして”切”というのは切るという意味ではなく、”心からひたすら強く”という強めの言葉なんですね。親切というのは心から一層寄り添う、身近にいる、身近に接するという意味なんですね。
キリストは目には見えませんが、あなたが人生の中で喜ぶときには一緒に喜ぶ神です。そしてあなたが悲しむときには共に泣く方でもあるのです。なぜならこの方は、親切なる方であるからです。神は愛です。そして人となられた神、キリストのなかにこの親切な愛が遺憾なく発揮されているのです。
正真正銘の愛
第3にキリストはすべてを期待し、信じて、あなたに働きかけておられる方です。なぜなら愛とは、「すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍ぶこと」であるからです。
私のお気に入りの絵本に、「にんじんのたね」という作品があります。ルース・クラウスという作家の書いた、たった12ページの短い話です。幼い男の子が、にんじんの種を蒔くんですね。ところが次のページ、ママも出てくる、パパも出てくる、お兄ちゃんが出てくる、そして寄ってたかって「芽が出る事なんかないよ」と口を揃えて諦めさせようとするんです。それでも男の子は、毎日草を抜き、水をかけ、黙々と世話を続けるんですね。しかし芽は一向に出てきません。いつまで経っても全く変化がないのです。見兼ねた家族は前にも増して言うんですね。「芽なんか出ないよ」って。それでも少年は周りの雑草を引き、水をやり続けます。来る日も、来る日も、来る日も黙々と世話を続けるんです。どれくらい時間が経ったんでしょう。ある日、にんじんは芽を出しました。やがて男の子の背丈を超えるほどまでになったというんです。
たったこれだけの話です。しかし、私の心には強く迫るものがあったんですね。諦めない少年の姿のなかに、キリストのイメージが見えてきたからです。
あなたは今、聖書のメッセージを聞いてくださっています。なんの変化もないかもしれません。しかしこの番組を通し、あるいは聖書の言葉を用いてキリストはあなたを、キリストを信じるように信じるようにと、今までずっと語り続け、働き続けてこられた方なのです。どうして諦めないんでしょう。キリストは愛だからです。私たちはこのキリストを救い主として受け入れることで、実は求め続けてやまないものを得ることができます。正真正銘の本物の愛を、自分自身の心に抱くことになるからです。
いかがでしょう。どうぞ、この救い主イエス・キリストを、ご自分の救い主として受け入れてください。心からお勧めします。
愛は寛容であり、親切です。また人をねたみません。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛は決して絶えることがありません。
(1コリ13:4,7-8)