ごきげんいかがですか。那須清志です。
今日も聖書が語るグッドニュース、福音についてご一緒に考えていきましょう。
今年も残すところあと2日となりました。毎年、この時期になると今年の振り返りや総括するような番組や記事が増えます。自分で思い出すことは難しくても、それらを見聞きすると「そんなことがあったなあ」とほとんどのことを思い出します。私たちの人生についても同じようなことが言えます。ゼロから思い出すのは大変ですが、写真や日記を見るならば、そのときの光景をはっきり思い浮かべることができます。
では、自分がこれまでしてきたこと、思ったことを創造主である神の前には覚えられている、と聞くとどう思いますか?多くの監視カメラで私たちの行動が記録され、世界中で飛び交うメールは完全に把握することができ、撮った写真は遠く離れた媒体に完全に保存されるような世界に私たちは生きています。人間の能力をはるかに超えた無限の神がすべてご存じと聞いて、「あり得るかも…」と思えるような時代になっているのです。
死後の世界の存在
聖書には次のようなことばがあります。
また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。
これは聖書の最後の書物、ヨハネの黙示録の一節です。この書には世界の行く末、人類歴史の終わりなどたくさん書かれていますが、人間の死後の世界についても記しています。
聖書全体が語っているのは、死後の世界があること、人間の魂は死んで終わりではないということです。ここでは、人が死後、創造主なる神の前で公平・公正な裁きを受けるときの様子が描かれています。私は今、このような死後の世界が存在することを信じています。理由を三つにまとめてみました。
理由1:最近の研究
第一に、「臨死体験」の研究が進んだことによります。「臨死体験」とは文字通り「死に臨んだときに体験すること」です。心臓が停まった状態から蘇生した人たちが、肉体と魂が別次元で存在したようなことを証言しています。一番有名なのが「体外離脱」というもので、ベッドに寝ている自分の姿を天井近くから見たり、手術している医者を見ているという現象です。あまりにもそういう証言が多いので、単なる気のせいや心理現象では済まされなくなってきました。1977年には臨死現象研究会が発足し、後に国際臨死体験研究会に発展し、国際会議が開かれています。何度も医療チームや大学などで調査が行われており、理由は説明できなくても、人間の死の前後で何らかの不思議な出来事が起こっていることを今や否定することはできません。「人間は死んで終わり」というよりも「肉体を離れても意識や感覚がある」という研究や証言を聞けば聞くほど、私は死後の世界を信じるようになりました。
理由2:聖書の記述
第二に、死後の様子を信じることができるのは、これが聖書に記されているからです。「臨死体験」に注目されたのはつい50年ほど前からです。医療技術の発展で心臓が止まってから蘇生する場合が増えたことでさらに弾みがつきました。しかし、聖書は少なくとも2000年も前から語り続けています。聖書がこれからの世界を預言したり、救い主の到来を約束したりして、その通りになってきたことは何度も語られています。創造主なる神が、聖書の独自性、信頼性を示すために未来のことを明確に語り、記録されました。人間の死後の世界のこともその一つと言えるでしょう。
死後の世界があるかどうかから始まって、それがどのようなものか多くの書物で述べています。実際に見ることができず、実験で確かめることができないので、どれが正しいかどうかを判断しにくいのです。重要なのはそれを語ったのは誰か、それは何に書かれているかです。情報源の信頼性の高さが、情報の確かさを判断する大きな手がかりになります。私は聖書が信頼できる情報であると思います。ですから、そこにある「死後の世界」についての情報を信じることができるのです。
理由3:キリストの復活
第三に、「イエス・キリストが死から蘇り、新しい命の存在を世に示した」ということです。創造主から遣わされた救い主イエスは、十字架で殺されたあと三日間死後の世界に留まりました。しかし、その後、新しい命を受けて蘇り、人々の前に現れたのです。つまり完全な死と、死の世界を経験し、再びこの世界に現れました。復活したイエスを見た人々によってこの福音メッセージはスタートしたのです。「死後の世界を見てきた人はだれもいないのだから、死後の世界があるかどうかわからない」という意見をよく聞きますが、神はイエスをその答えとして示されたのです。
「人間は考える葦である」と言ったパスカルは、科学者として有名です。同時にクリスチャン思想家としても有名ですが、復活に関して次のように書いています。
「生まれることとよみがえることとどちらが難しいか。かつて無かったものが存在しにくるのと、有ったものがふたたび存在しにくるのとどちらがむずかしいか。」パスカルは、無からいのちを創造することを考えれば、もと有ったいのちを蘇らせる方がよほど簡単ではないか、と言っているのです。
神が存在するかしないかの賭け
このパスカルが「神を信じること」と「賭け事」を関連づけて語っています。こんな感じです。
神は存在するか、存在しないかのどちらかだ。それを信じるか、信じないかもどちらかだ。組み合わせは次の四つ。
まず「神は存在していて、あなたも信じている場合」次に「神は存在していて、あなたは信じていない場合」三つめは「神は存在しないのに、あなたはいると信じている場合」四つめは「神は存在せず、あなたも信じていない場合」あなたはどれを選びますか?
これはちょうど賭け事みたい、とパスカル言うのです。さらに、どれが得か考えたら「信じた方が得ですよ」と言うのです。
神は存在しないのに、いると信じていた場合、本当に存在していなかったら「ああ、損したなあ。」と思うでしょう。でも、神が存在しているのに信じていなくて、後からおられるとわかったときの損失はどれほどでしょうか。
パスカルは「期待値」という手法を使って、神を信じないほうがはるかに損失が大きいことを証明しました。ふざけているのではありません。数学者としても有名な彼は、この「パスカルの賭け」と言われている考え方も含めて「確率論」を進展させたと言われています。
もちろんパスカルはこの理由だけで信じたのではありません。逆に自分が抱いている信仰を人々に説明するために数学的発想を用いたのです。
「ある」か「ない」かで変わる人生
「死後の世界はあるのか」「死後の裁きはあるのか」なども同じように扱うことができます。「ある」か「ない」か、どちらに賭けるかによって、私たちの生活は大きく変わります。検討してそれなりの意見を持った人もいれば、考えたこともない、という人もいるでしょう。でも、私たちが生きているということは、どれかに「賭け」ているのです。知らず知らずのうちにも選んで、その価値観で生活しているのです。
「死後の世界の存在」を語るのが聖書のゴールではありません。自分の行いに応じて裁かれる私たちは、このままでは神から「正しい」と宣告されることは困難だ、と聖書は警告します。死後の永遠の世界で平安と勝利を得るためには「罪の赦し」が必要です。正義と同時に愛なる神は、まさにそれを与えるために救い主イエスをこの地上に送ってくださったのです。次のことばはイエスの約束です。
まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。
新しい年を迎えるにあたって、神はいるのか、死後の世界や裁きはあるのか、イエスは救い主なのかなど、人間にとっても最も大きな課題にチャレンジしていただくことを心からおすすめいたします。
(ヨハネ5:24)