ごきげんいかがですか。三綿直人です。
さて今年の4月28日、クリスチャンで詩画作家の星野富弘さんが78歳で亡くなられました。私のパパ友がその葬儀に参列したんですが、一般の葬儀と全く違い、感謝と喜びに溢れていて、真実の希望について深く考えさせられたとレポートしてくれました。では、星野富弘さんの人生は、悲しみや苦難と関係のない人生だったのでしょうか。いいえ、苦難と絶望の中で喜びを見出した人生だったんです。
星野さんは群馬大学教育学部を卒業、念願だった中学校の体育教師になります。しかし新卒一年目24歳の時、飛び込み前転からの前方宙返りの模範演技中に、事故で首から下が動かなくなってしまいました。マットのまま救急車に運ばれ、ベッドから天井を見上げる日々、ずう~っと絶望だったそうです。舌をかみ切ったら死ぬかもしれない、と考えたり、母親に首を絞めてもらおうか、とも考えますが、母親を殺人犯にするわけにもいかず、など当時の絶望状況を本の中で語っておられます。そんな星野さんが、どうして感謝と喜びにあふれる人生になったのでしょう。普通、苦難がない人生が感謝と喜びの人生だと考えます。将来の苦難を避けるために、いろいろ準備をします。安産祈願、安全祈願に行きます。勉強をし、富を蓄え、人間関係を構築するのは、苦難が来ても解決できるようにではないでしょうか。しかし、星野さんは苦難さえも喜ぶ人生を歩みました。本当にそのような人生があるのでしょうか。今日は「苦難さえも喜ぶ人生」とタイトルをつけて、三つのポイントで考えてみましょう。
良いことばを聞く
まず一つ目のポイントは「良いことばを聞く」ということです。ところで私たち人間の体に、最も大きな影響を与えるのは何でしょう。そうです、食事ですね。栄養バランスのとれた食事が、しっかりとした体を作ります。悪いものを食べてもすぐに体が悪くなることはないかもしれませんが、長い目で見ると食事が私たちの体に最も大きな影響を与えるんです。では、私たち人間の心に、最も大きな影響を与えるのは何でしょう。そうです、ことばなんです。ことばで心は育まれるんですね。どんなことばを聞いているかで心の健康は左右されるんです。しかも食事と違って、友達や親に言われたひとことが、人生を左右するほど、心に大きな傷をつけることだってあるんです。私たちの住む社会は、どんなことばが飛び交っているでしょう。誹謗中傷、陰口、人を陥れることばが多いのではありませんか。心の元気を奪うことばが溢れているんではないでしょうか。
星野さんはベッドに横たわりながら、書見機で聖書を読み始めました。群馬大学の2年先輩のクリスチャンに勧められたからです。最初は全然分からなかったということですが、一つのことばに目が留まりました。それは聖書のこのことばでした。「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。」衝撃だったそうです。苦難さえ喜ぶ?でもこの苦難が希望につながっているというのが本当なら、それはうれしいなぁと思ったそうです。聖書のことばに出会ってから、彼の人生は少しずつ変化し始めます。体は動きませんが、心が変えられていくんです。聖書のことばは、良いことばです。あなたの作者である神が、あなたに語りかけている愛のことばです。この聖書のことばが、失望に終わらない希望、苦難さえ喜ぶことができる人生の出発点なのです。続けてどうぞ良いことば、聖書のことばを聞いて欲しいと思います。これが一つ目のポイントです。
自分の心の醜さに向き合う
二つ目のポイントです。「自分の心の醜さに向き合う」ということです。私たちはなかなか自分というものが分かりませんね。鏡を見れば自分の体の様子は分かるかも知れませんが、自分の心はどうでしょう。聖書は私たち人間の心の鏡です。そして聖書は私たち人間の罪、その醜さについて真っ直ぐ語ります。「義人はいない、一人もいない」と。星野さんも聖書を読むにつれ、自分の心の醜さに目が開かれたと言います。ある時病院に、スキー大会で転倒し、星野さんと同様に四肢が全く麻痺してしまった中学生がやってきます。しかし彼は治療がうまくいき、腕も足も動くようになり、自分で排泄をし、食事ができるようになるんです。それまで星野さんは、自分と同じ不自由な状態にあった中学生を励ましていたんですが、実際にその中学生が動けるようになると、強い嫉妬心が芽生えたそうです。
星野さんはこのときの経験を次のように詩で表現しています。「体のどこかが、人の不幸を笑っている。人の幸せがにがにがしく、『あいつも俺みたいに動けなくなればいい』と思ったりする。体の不自由から生じたひがみだろうか。心の隅にあった醜いものが、しだいにふくらんできたような気がする。自分が正しくもないのに、人を許せない苦しみは、手足の動かない苦しみを、はるかに上回ってしまった。」星野さんは自分の罪、心の醜さに向き合いました。私たちはどうでしょうか。自分を正当化し、自分が悪いならみんな悪いと考えていないでしょうか。人の醜さを指摘して、自分の醜さから目をそらしてはいないでしょうか。手足が動かない苦しみよりも、人を許せない苦しみが上回ったと言う星野さんは、心の醜さに向き合いました。逃げませんでした。ゆえに自分でどうすることもできない罪から解放してくださる方、イエス・キリストを求めるようになるんです。
神の愛を知る
三つめのポイントです。「神の愛を知る」ということです。苦難さえも喜ぶことができるのは、神の愛が注がれているからだと聖書は語っています。自分の心の醜さに向き合うと、自分でも自分が嫌になることがあります。そして、こんな自分を愛する人はいないと思うようになります。なので、自分を隠し、仮面をかぶり、自分を演じて人付き合いをするようになります。しかし聖書は語るのです。あなたの心がいかに醜くとも、わたしはそのあなたを愛していると。愛されるために醜さを隠す必要はないと。だれも愛してくれないと思っているあなたに、聖書は語るのです。あなたの罪、あなたの過ち、あなたの醜さを知ってなお、止めることのできない絶大な愛で、あなたを愛している方がおられると。その方が、イエス・キリストです。キリストはあなたを愛し、命を懸けて、罪の負債をすべて支払ってくださいました。そして、あなたの心に愛を注いでおられるんです。私たちの社会は、あなたの能力、やる気を評価します。しかし、神の愛は違います。あなたの存在を喜ぶのです。
星野さんは、人の世話にならなければ生きていけないのです。しかし、キリストを信じた星野さんを、同じくキリストを信じた人々が支え、生きていったのです。星野さんは口に筆をくわえ、詩と絵を描くようになります。苦しみから生まれた希望で、多くの人々が慰められ、真の喜びと希望と感謝が溢れているんです。是非、苦難さえも喜ぶことのできる人生、失望に終わらない希望をもつ人生に入ってください。心からお勧めします。
小阪 忠:十字架の側に立って
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
(ローマ5:3-5)