ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
私は先日、面接試験で不採用通知を受けた大学生と一緒に食事をしました。面接では入社後の配属先の話まで具体的に出ていたので「これは受かった」というふうに期待していたんですね。「あんなに褒められていたのにダメだったとは」ということで大変落ち込んでいました。世の中にはいくらいい言葉でもそのまま真に受けてはならないというものがあるんですね。しかし、聖書にはそのまま受け取るに値することばが紹介されているのです。
「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
今日は、ここから3つのポイントでお話しいたしましょう。
神が人間となられるという例外中の例外
第1に、キリスト・イエスとはただの人間ではなく来られた方だというのです。一体どこから来られたのでしょう。何のために来られたのでしょう。この方の正体とは一体何者なのでしょう。神そのものなるイエス・キリストが人を救うために天からこの世に人となって来られた方なのだと聖書は語っているんですね。
ところで私は昨年、ニューヨークのワールドトレードセンタービルを見学いたしました。ここは、かつて世界貿易センターのツインビルが立っていた所なんです。この双子のビルはハイジャックされた旅客機が突っ込むことによって崩落し、日本人を含む2,977人の方が亡くなられたのです。別名911事件とかアメリカ同時多発テロというふうに言われてる事件です。
あの時、アメリカ政府はアメリカを離発着する予定の全ての航空機をストップしたんです。アメリカに向かってる航空機も、アメリカを飛び立とうとしてる航空機も、全部キャンセルさし(せ)たんですね。アメリカ本土にただの一機も入れないようにしたのです。どの航空機がテロの道具になるのか分からなかったんですね。
ところが、このような状況の中でたった一つだけ例外があったのです。アメリカの本土からオーストラリアに向かう特別貨物便があったんですね。この航空機にはナイリクタイパンという名前の毒蛇の血清剤が積まれていたんです。このナイリクタイパンというのは世界一強力な猛毒を出す蛇です。ブラックコブラの50倍、日本マムシの800倍の毒で、一噛みで一万人を殺傷する威力の毒を出すというふうに言われてるんです。これに噛まれた人がオーストラリアにいたんですね。彼を救う手立てはたった一つ、毒を打ち消す血清注射を打つことだけでした。ことは一刻を争ったんです。アメリカ政府は今しか救うチャンスがないために、特別許可を出して例外的に離陸を認めたのです。
神が人間になるというのは例外中の例外のこと。普通ではない救済方法ですね。なぜそのような尋常ならざることを神はなさったんでしょう。これ以外に罪人が助かる道がなかったからです。「キリストは罪人を救うためにこの世に来られた」このことばの通りです。ところで、蛇毒の血清というのはどのようにして作るんでしょう。蛇の毒を薄めた物を馬のような大型動物に注射し、そして、その動物の体の免疫システムによって抗体を作り出すのです。毒を打たれてダメージを受けたものが毒を制する抗体を生み出すことができるんですね。
キリストは全く罪のない方でしたが、十字架にかかって人のすべての罪を背負って苦しんでくださったのです。それは身代わりの死です。このキリストの身代わり刑罰と3日後の復活によって、罪という猛毒を完全に打ち消す救いが完成したのです。
キリストは罪人を赦すために来られた
第2に、キリストは罪人をさばくためではなく救うために来られたので、どんな罪人であったとしても自己弁護する必要なく神の前に出ることができるようになるということです。
アメリカのニューヨーカーという雑誌に以前、子どもを対象にした心理実験の記事が掲載されておりました。まず最初にオオカミ少年の話を聞かせるのです。「オオカミが来た〜」と嘘をついて人々が大騒ぎする様子を楽しんでいた少年がいるんですね。しかし、本当にオオカミが来た時、もはや誰も彼の叫びを信用することはなく、最終的に彼はオオカミに食べられてしまったという話です。嘘をつくと恐ろしい結末が待ってるんだよというそういう話です。さて、この話を聞いた後子どもはどう考えるのでしょう。嘘をつくのをやめる。嘘をつきたくないと考えるようになったのでしょうか。いいえ、より巧妙に嘘をつく方を選ぶようになったというのです。
次にワシントンの桜の木の話を聞かせます。少年ワシントンは斧の切れ味を試すために、お父さんが大事にしていた桜の木を試し切りで切り倒してしまうんですね。帰宅したお父さんは桜を見て激怒します。いったい誰がこんなことをやったのかと。その時、ワシントン少年は正直に父に告白します。するとお父さんは一言「よく言った正直者の息子を一人持つことは桜を千本持つことよりも良い」と言ったというんですね。たとい過ちを犯しても正直に告白することで赦される。赦されるだけではなく喜ばれる。この話を聞いた後、嘘を選ぶという子どもが43%も減ったというのです。
パウロは自分のことを「私はその罪人のかしらです。」と言いました。この罪人のかしらという意味は、「全人類の中で最悪の罪人とは紛れもなくこの私なんです」という告白です。どうしてそんなに素直にありのままの自分を曝け出すことができたのでしょう。キリストは罪人を赦すために来てくださったという事実の前で、もはや自分をきれいなものに飾る必要はなく、隠れる必要もなく、逃げる必要もなく、自己弁護する必要が全くなくなったからです。キリストによる赦しこそは罪人を素直にする神の恵みの手段なのです。
キリストという真実をそのまま受け入れる
第3に、神が示したイエス・キリストという真実に対してそのまま受け入れるということです。このそのまま受け入れることを別の言葉で言い換えると信じるということになるんですね。
信じるとはキリストの主張を丸ごと全部本当のことですと信じることなのです。と言いますのは、この『受け入れる』という言葉は、ギリシア語では『ピストス』という言葉なんですね。そしてこの『ピストス』という言葉の中には『受け入れる』という意味と同時に『信じる』という意味があるのです。受け入れることと信じることは同じです。イエス・キリストを受け入れるということは、イエス・キリストを信じるということなんですね。はるばるアメリカからオーストラリアまでナイリクタイパンの血清注射が運ばれたとしても、それだけでは毒に苦しむ人は助かりませんね。助かるためにはその血清注射を受けなければならないのです。受け取ることが一番大事なんです。「キリストのお話は非常に良いお話、結構なお話でした」と受け止めるだけではなく、受け入れることです。キリストを私の救い主として心の中に受け入れること。これこそが救われるために必要なことなのです。
どうぞ、あなたもイエス・キリストをそのまま受け入れ、神の赦しと永遠のいのちをいただいてください。心からお勧めいたします。
(1テモテ1:15)