ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
ところで、私が所属している東住吉キリスト集会は、以前3階建てのビルで集まりを持っていました。そのとき屋上に5メートル×4メートルの立方体広告塔に看板を掲げておりました。四方どこからでもよく見えたんです。白地に赤の文字で、聖書のことばを掲げていました。「神は愛です」。聖書のメッセージをひとことで言うと、これに尽きます。神は愛です。神はあなたを愛しておられる方なのです。どうしてそのように断言できるのでしょう。次のように聖書が語っているからです。
神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは定められた時になされた証しです。
ここから三つのポイントで、神の愛についてご紹介しましょう。
あなたの創造主は唯一の神
第一に、神は唯一の方です。世の中には人間が造った神々と言われるものがたくさんありますね。しかし人を造られた神は、唯一の神です。そしてあなたの作者は、あなたの魂の親なのです。
今から百年ほど前、アメリカのテネシー州で聖書大学の教授を務めていた方がいらっしゃいました。美しい湖畔のレストランで、ディナーを奥さまと楽しんでいました。するとそこに、何やら賑やかな男が現れて、各テーブルを順番に挨拶にまわり出したのです。夫婦水入らずの良質な時間に、呼んでもいないのに入り込んでくるその男のことを、教授は不愉快に思いました。できれば来て欲しくないなと思っていましたが、例外はありません。いきなり彼のテーブルのところに来ると、仕事の内容を聞かれるのです。「おぉそうですか、あなたは牧師や伝道者を育てる聖書の教師なんですか」そう言って自分の少年時代の話しを始めたのです。
「実は私の母は10代で未婚の母となり、私を産んだんです。しかも父親が誰なのか、生涯口にすることはありませんでした。だから私も知らないんですよ。そしてそれが人々の憶測を呼んで、あらぬ噂が飛び交ったもんです。私の生まれ育ったところは、たいへん保守的な土地柄で、私につけられたあだ名は、私生児を連想させるものでした。町を歩くと、『あの子は誰なんだ?』とか、『あの子の父親は誰なんだ?』と、いつも好奇の目にさらされてました。それで私は人と話すことを恐れるようになり、ますます独りぼっちでした。それでも毎週日曜日になると、町のほとんどの人は教会へ行くのです。できるだけ人々と一緒になりたくなかった私は、遅れて教会に入り、早めに教会から出て行きました。
しかし私が12歳のとき、新しい牧師が赴任してきたのです。彼は前任者と決定的に違うことがありました。話が短いんです。エッ、もう終わったの、というくらい早くに終わってしまったため、私はひと足先に教会を出る機会を逸してしまったのです。気まずい心で小走りに出て行こうとしたそのとき、牧師は私に追いついて肩に手をかけました。『えーっと、君って、誰だっけ、君のお父さんは、え―っと…』。ああ、またこの話題か、といたたまれなくなったとき牧師は言いました。『ああ、思い出した。創造主だ。君のお父さんは、君を造った神だ。だから今後、誰かが君の父親について何か言ってきたら、はっきり言ってやりなさい。私を造られた唯一の神が、私のお父さんですと』。それが私のターニングポイントになりました。神は、私をみじめに生きるために造ったのではなく、意味ある人生を送らせるために私を造ってくださったのです。それもこれも神が私を愛してくださったからです」
さてこの賑やかな人物は、テネシー州の知事を務めたベン・W・フーバーという人でした。彼の短い証しは、大学で教えていた難解な神学にもまさって、この教授の心を揺さぶったのです。神の愛が証しされていたからです。神は愛なので、あなたを造ってくださったと言うのです。
神と人との仲介者 イエス・キリスト
第二に、神は、神と人との仲介者として、神の御子を人間として遣わしてくださいました。この人となられた神こそ、イエス・キリストです。
ところで良き仲介者になるためには、仲介者になろうという意思だけではなく、仲介相手の気持ちをよーく理解する能力が不可欠ですね。認知症治療の第一人者であったお医者様に、長谷川和夫さんという方がいらっしゃいます。あるとき、80代の男性入居者の診療を依頼されるんですね。
最近、視力聴力がともに落ちている、そのうえ意味不明の発言が多く、会話が全く成り立たない。まあ、そういうことで担当者が困り果ててるんですね。入所時の申し送り書を見ると、この方は大のプロ野球ファンと書いてありました。それで長谷川先生は、訪問したときに彼の耳元でひと言「プロ野球」とつぶやいてみたのです。するとやおら目が輝き出します。そしてひいきのチームを聞くと、「西鉄ライオンズじゃー、地元じゃったきー平和台にはよう通うたばい。稲尾どんがジャイアンツをやっつけてのう。神様、仏様、稲尾様じゃー」。これ年配の人には説明不要ですよね。球史に残る昭和33年の日本シリーズの様子を、この男性は博多弁でとうとうと語り始めたんです。
担当者はその様子を見て、びっくり仰天するんですね。実はこの男性は、以前からそう言っていたのです。しかし関東出身の若い担当者にとって、ライオンズと言えば西武なんですね。西鉄って何なのかよくわかんない、稲尾どんがとか言われても謎の丼物としか聞こえず、そのため意味不明の発言をする人として片付けられていたのです。この担当者には、相手に寄り添いたいという意思や気持ちはありましたが、相手を理解する能力はなかったのです。しかしキリストは違います。キリストはあなたのことばにならない、心のうめきまでも正確に理解することがおできになる方なのです。そのキリストがあなたのために、神に弁護していてくださるのです。
キリストはあなたの罪を背負われた
第三に、キリストはあなたの罪を背負って十字架にかかり、あなたの罪を永遠のかなたにまで持ち去ってくださった方です。北海道の知床自然保護地区においては、ボランティアの方達の中に独自のルールがあるそうです。もし自然保護地区内でエゾシカの死骸を見つけたら、発見者が片付けるという不文律です。なぜでしょう、死骸をそのままに放置しておくと、においに引き寄せられて山奥からヒグマがやって来るからです。飢えたヒグマが獲物をむさぼっているその最中に、もし人間と鉢合わせになったら、大変なことになりますね。しかしこのエゾシカという動物は巨体なんです。腐ってるとにおいも強烈でしょう。それを軽トラックの荷台に運びこむというのは、すさまじい重労働です。しかしそれをしないと、ヒグマがやって来るんですね。
キリストは私たちの罪を背負って、永遠のかなたに持ち去ってくださいました。それによって、罪の究極の結果である死後のさばきを永遠に持ち去るためなのです。このキリストの十字架の死とよみがえりこそ、神の愛のわざなのです。
どうぞあなたもイエス・キリストを救い主として信じてください。心からお勧めいたします。
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自分を与えてくださいました。これは、定められた時になされた証しです。
(1テモテ2:5-6)