#1074 狭い門から入るとは

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。三綿直人です。

さて明治末期から大正初期にかけて活躍した近代日本文学の頂点に立つ小説家と言えば、そうです。誰もが知る夏目漱石ですね。
ご存じのように、夏目漱石の漱石はペンネームです。本名は夏目金之助。親近感がわく名前ですね。この漱石、中国のことわざに由来していることをご存じですか。そのことわざとは「石に漱ぎ、流れに枕す」です。漱石の漱という漢字に「ぎ」と送り仮名をつけると「くちすすぎ」と読みます。
晋の孫租という人が「石に枕し、流れに漱ぐ」というべきところを「石に漱ぎ、流れに枕す」と言い間違えたにもかかわらず、友人に間違いを指摘されると「石に漱ぐ」とは歯を磨くことだ、「流れに枕す」とは耳を洗うことだ、と間違いを認めないで、こじつけたという故事に由来し「負け惜しみの強いこと、屁理屈をつけて言い逃れること、何でも正当化すること」のたとえです。漱石はそれがおもしろいと思ったんでしょうね。もともとは友人の正岡子規の数あるペンネームの一つだったそうですが、子規から譲り受けて自分のペンネームにしたんだそうです。由来を知ると、おもしろいですね。

「狭き門」の由来

さて、今回は「狭き門」ということわざの由来である新約聖書の箇所から「狭き門から入るとは」というタイトルで少し考えてみましょう。
新約聖書マタイの福音書7章13節をお読みします。

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

狭き門というのは日本では競争者が多くて就職や入学などが難しいことを表すのに使われていますが、キリストはその意味で教えてはいません。フランスの小説家アンドレ・ジッドは、狭き門は一人でくぐる幅しかないので、神は結婚を禁じていると理解している人を主人公にした小説を書きましたが、それも本来の意味ではありません。
イエス・キリストが語っておられる本来の意味を三つのポイントでお伝えしようと思います。

キリストを信じ共に歩むこと

一つ目のポイントは、狭い門から入るとは、イエス・キリストを信じ共に歩むことを意味しているということです。
この箇所はキリストが語られた山上の説教の一部です。直接的にはキリストの弟子の姿について教えているんですね。すべて対比で語られました。
一つ目の対比は二つの門、狭い門と広い門です。二つ目の対比は二つの道、狭い道と広い道です。三つ目の対比は二つの結末、いのちと滅び、ですね。
キリストはこのように二つのものを対比させて、わかりやすく話をされました。そしてズバリ、いのちに至るのはわたしを信じ従う者である。天の御国に至るのは、わたしについてくる者であると語ったのです。「わたしが門であり、わたしが道であり、わたしがいのちである。」とはっきり宣言なさいました。キリストはどちらでもいいよ、とはお語りにならなかったのです。わたしでなければ、滅びの道だと断言されています。
私はこれはすごいことだと思います。キリストは大うそつきか、本当に確信を持って語っているのか、どちらかなんだと思うのです。キリストはここで、わたしを信じわたしに従う者にこそ、いのちと救いがあるんだと教えておられるんですね。

「狭い」の由来は「うめく」

二つ目のポイントは、狭い門から入るとは、問題と向き合うことを選択すること、ということです。
実は狭い門から入りなさいという狭いという言葉は、うめくという言葉に由来しています。どうして狭い門から入る人が少ないのか。それは競争者が多いからではありません。うめくことが嫌な人が多いんです。つまり、自分が抱える罪の問題から逃げ、目を背ける人が多いということです。
キリストはまず、私たちの罪の問題を指摘します。これが私たちにはうれしくないんです。問題と向き合ってうめくよりも、逃げて、ごまかして、笑う方が私たちには簡単なんですね。
例えば、あなたが人間関係でこじれている人がいるとしましょう。関係がこじれる根本原因は自己中心という罪です。過ちを認めて謝るということは、問題に向き合うこと。その人と向き合わず、無視したり関係を疎遠にすることは、逃げてごまかしていることです。あなたは、どちらが簡単ですか。うめくよりも、逃げる方が簡単でしょう。

罪を直視する

キリストは罪からの救い主ですが、そのためには自分の罪を直視して、それを正直に認めて、罪の結果は滅びであるということを受け入れて、キリストに罪からの救いを求めるということが必要なんです。でも多くの人は自分の罪を認めるなんてプライドが許さないって言うんですね。
広い門から入る人が多いんです。広い門は自分の非を認めなくてよい道です。責任転嫁できる道です。環境のせいにできます。悪いのは自分だけではないと開き直ることもできます。しかし、狭い門はうめきの門です。ここから入るなら、いのちが約束されています。私たちの罪が赦されないのは、罪が大きすぎるからではありません。罪を認めてキリストのところに来ないからです。
あなたは自分の人生における過去の罪はありませんか。人を傷つけたことはありませんか。うめきを経験しますが、その後は幸いがやってくる、それが狭い門から入るということなんです。

決断を促している

最後に三つ目のポイントをお話しましょう。それは良い決断をしなさい、ということです。
この原文を見ると、決断を促す命令文になってるんですね。狭い門をくぐるという決断をぜひしなさい、ということです。私たちの人生を決めるのは決断です。小さな決断もありますが、大きな決断もあります。決断は嫌いだ、流れに任せるという人もおられることでしょう。決断という言葉そのものが嫌だという人もいるかもしれません。しかし、決断しないというのも、りっぱな決断です。
最近は決断できない人、決断しないという決断をしている人が増えてるような気がしますが、キリストはここで、人生で最も大切だと思われる決断について言及しておられます。失敗した、では済まされない決断です。生か死か、いのちか滅びか、どちらに進むのかっていう決断です。

狭い門を選ぶ

あなたはキリストを信じ従うこと選び、いのちを選ばれますか。どの門をくぐっても、どの道を行っても、結局は一緒だという言葉に騙されないでください。広い門はくぐりやすく、歩きやすいでしょう。けれどもその結末は滅びだと教えています。滅びとは、消えて、燃えて、なくなってしまうということではありません。永遠に幸せを失った状態が続くことを意味しています。
どうぞ狭い門から入りましょう。キリストを自分の罪からの救い主と信じる人は幸いです。キリストがいのちに至る唯一の門だと、私は信じました。キリストだけが、罪のない生涯を歩まれた方です。キリストだけが私たち罪人のために十字架につき、身代わりとなって罪の刑罰を受け、赦しを与えてくださる唯一の方です。そしてキリストだけが、あなたを、そして私を支えることのできる、今も生きる現実の御方です。
狭い門から入りましょう。それはいのちに至る道です。その道は狭いですが、祝福に至る道です。心からお勧めします。


使用CDジャケット
Simple Sheep:道

今日のみことば
こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
(マタイ7:13-14)