#1163 グッバイ-God be with you

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。慶相龍です。

さて、私の母はクリスチャンで、現在、がん闘病中なのです。先日、話があるというので実家の母親の部屋で二人きりの時間を持ちました。母親は抗がん剤の副作用のせいか、とっても息苦しそうだったんです。家の権利証やら銀行通帳などを私に差し出しながらこう言うのです。「残してやれるものはこれぐらいしかないの。」母親は自分がいつかこの世を去る日が来ることから目を背けることなく、その日を迎えるための準備をしているようでした。私はなんだか切ない気持ちでその時間が過ぎるのをじっと待っていました。
聖書の言葉です。

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

3つのことを考えましょう。

死ぬことと裁きを受けることが定まっている

第1に、聖書によると人は誰でも一度死ぬことと死後に神の裁判を受けることが定まっているということです。
罪を持ったままこの死後の裁判を受けるなら永遠の火の池での破滅的刑罰が確定してしまうのです。この刑罰は第二の死と呼ばれています。聖書はこの第二の死を大きな問題として見ているのです。ところで、罪とは人間の造り主である神を離れて生きようとする性質のことです。そして、この罪の性質があるので人間は悪を行おうとしてしまうのです。淫らな行い、汚れ、好色、偶像礼拝、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、妬み、泥酔、遊興、そのような類いのことについつい心を奪われ、時には行動に移してしまう。悪いことだ、してはならないことだと分かっているのにそれをしてしまうのは、それを行う原動力としての罪の性質が人間の中に宿っているからだというのです。あなたには罪がありますか。あるとするならその罪を解決しない限り、あなたは死後の裁判によって第二の死が確定してしまうのです。

究極の終活は罪の解決

第2に、ですから人間にとって究極の終活というのは罪の解決をすることだということです。
ここで言う終活とは、人生の最後を迎えるにあたっての必要な準備を行う活動のことです。では、罪の解決はどうすればよいのでしょうか。あなたの罪のために十字架で身代わりの死を遂げてくださった方、そしてあなたを束縛する恐怖、この死を打ち破ってよみがえってくださった方であるイエス・キリストを、あなたを罪とその刑罰である永遠の死から救うあなたの神と信じ受け入れるなら、神はあなたの罪を赦す、赦すどころかもう二度と思い出さないと聖書は語るのです。
義理の両親は夫婦仲がとっても悪かったのです。特に義理の父は晩年に認知症を患ったせいもあり、義理の母に対して以前にも増して激しく暴言を吐き、時に暴力を振るう始末でした。
そんな義理の父が亡くなってから7年ほどが経ちました。今では義理の母も認知症です。先日、義理の母に聖書の話をしながらこんなことを質問してみました。「お母さん、神様がもし願い事を聞いてくださるとしたら何を願いたいですか?」すると母はこう答えたのです。「そりゃあ、お父さんに会わせて欲しいわよ。」お父さんというのは亡くなった自分の夫のことです。家内がびっくりして尋ねました。「あんなに怖がっていた、あんなに嫌がっていたのに、お父さんに会いたいの?」すると今度は義理の母が驚いたようにこう言うのです。「怖がったことなんかないよ。嫌がったことなんか一度も無いよ。本当に私のことをよく可愛がってくれたわ。本当に優しい人だった。」義理の母は自分の夫の良いことしか覚えていなかったのです。悪いことをすっかり忘れて夫のことを心から喜んでいたのです。
同じように、私たちがどのように罪深くとも悔い改めてキリストを信じるなら、神は私たちの罪を忘れ二度と思い出さず、非の打ち所がない正しいものとして喜んで私たちを受け入れてくださる方なのです。

永遠のいのちが与えられる

第3に、神はイエス・キリストを信じる者に永遠のいのちを与えるということです。
永遠のいのちというのはキリストを信じた時をスタート地点として、この世で、そして永遠の天国で神と共に生き、神というお方がどのような方であるのかをますます深く知っていくいのちなのです。ですから当然、今私たちが持っている、いつかは朽ちていくこの世用の有限の体の次に、天国で永遠に生きることができる、永遠に死なない不死の健康体が与えられることも神は約束しておられるのです。
冒頭でお話した闘病中の私の母ですが、病気に打ち勝つ体力を蓄えるため、しっかり食事を摂ろうとするのですがどうにも食欲が出ないのです。私も事情の許す限り食事の世話をしていまして、先日は奮発して大枚をはたいて高級な和牛を買って焼いてあげたのです。でも食欲が出ないのです。新鮮な刺身も体が受け付けません。どうしたものかと私は考えました。そして思いついたんです。小ぶりなトマト2つを少し長めに茹でて皮をむいて出してあげたんです。トマトの湯むきは生まれて初めての経験でした。私は長く茹で過ぎて形はめちゃくちゃ、おまけに見るからに水っぽくなってしまいました。でも母は息子が手間暇かけて湯むきにしたトマトを見つめてにっこり笑うのです。そして2つとも美味しそうに食べてくれたのです。美味しいはずはないのです。でも母は実に美味しそうに、そして実に嬉しそうに食べてくれたのです。どれもこれも私にとっては胸が締め付けられるような経験です。しかしそんな母を眺めながらこう思ったのです。
神様はこの母にやがて不死の健康体を与えてくださるのだ。私はひとかたならず慰めと励ましを受けました。おとぎ話のように感じられるかもしれません。しかし、神が存在し神が生きておられるならこの約束を必ず守ってくださるのです。
英語の『good bye』という挨拶の言葉は、本来『God be with you』つまり、『神があなたと共におられますように。』という祝福の言葉です。人間には一度死ぬことが定まっているのです。ですからこの世で私たちは大切な人とのお別れを何度か経験しなければなりません。永遠のいのちはそんな大切な人とのお別れの瞬間にさえ『good bye(神がともにおられますように)』と心から祝福し合える素晴らしいいのちなのです。そして、天国でまた会おうねと希望を語り合えるいのちなのです。どうか、キリストを信じて永遠のいのちを得てください。心からお勧めいたします。


今日のみことば
罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
(ローマ6:23)