#1234 義にして愛なる創造主

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

先日、講演者として招いてくださった企業のロビーに、自己啓発の言葉が張り出されてありました。
『心の状態は部屋に現れる。淋しさは金遣いに現れる。気品は言葉遣いに現れる。我慢は怒りに現れる。無知は傲慢さに現れる。』
思わずメモを取りましたね。特に『無知は傲慢さに現れる』という言葉が心に刺さりました。よく知らないと相手のやってることが本当は良いことであったとしても手抜きに見えたり、愚かに見えたりするっていうんですよね。そして、神に対する無知は、神への傲慢さとなって現れるとも言えるのではないか、そんな風に思ったんです。神様ってどんな方でしょう。聖書にこう書いてあります。

しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。

ここから3つのポイントで、バイブルの神をご紹介しましょう。

聖書の神は創造主

第1に、聖書の語る真の神様とは、創造主なる神です。つまり、全てのものの第一原因者、全宇宙、全物質、全エネルギー、時間も空間も無から創造された御方、それが聖書の語る神です。
神の存在を認めない人は、ビッグバン理論という仮説を信じてらっしゃるんですね。これは簡単に言いますと、宇宙はビッグバンという大爆発で誕生し、高温・高密度の火の玉状態から膨張、更に冷却、そのプロセスの中で、星や銀河ができて、そして今日に至りましたという理論なんです。しかし、何もなかったところに爆発が起きたというなら、その爆発はどうして起こったのか。何もないのに何かが爆発するとは、一体どういうことなのかということを説明しなければなりません。そこで、量子論的なゆらぎによって時空が起こったというのが、まあ、今のビッグバン理論の最先端の説明なんですが、このゆらぎが起こったというなら、そのゆらぎの原因は何なのか。ゆらぎの究極の原因について説明しなければならないんですが、それはできないんですね。
聖書はこう言ってます。「はじめに神が天と地を創造した」
神は『はじめ』という時間、『天』という空間、『地』という質量を伴う物質を創造されたのです。この神が造った宇宙の中に、人間が住むのに最適な条件を備えた地球があります。私たちは、そこに生まれ、生かされてるんですね。いわば創造主がオーナーである地球という邸宅に、タダで住まわせてもらってる店子(たなこ)みたいな存在です。それが分かると、この地球環境をみだりに粗末にするというようなことも出てこないと思うんですね。

神は義なる方

第2に、神は義なる神です。罪を罪として正しくさばく方なんですね。
先日、SNSで匿名の方のエピソードを読んで考えさせられました。その男性が深夜に駅を降りて自宅に向かっていたところ、後ろから3人の若者がついて来たっていうんですよね。そして、人通りのないところに来ると、いきなり前に回って立ち塞がった。そして、「持ってる物を全部出してみろ!」と凄んできたんです。恐喝です。
彼は言われた通り持ち物を見せました。すると3人は表情がみるみる強張ったそうです。そしてなんと「勘弁してください」と言って土下座して謝ったっていうんですね。そこで彼は、「いやぁ、そんなことしなくていいんですよ」と言って立ち上がらせ、ズボンの膝のところに付いている土をパンパンと、汚れを払ってあげた上で逮捕したそうです。警官だったんですね。持ち物を見せてみろと言われて警察手帳を見せたその瞬間、彼らは脅した相手を間違ったということに気がついたんです。
無知は傲慢に現れるとは正にこのことです。今、世界で暴力が横行し、テロがのさばり、ドメスティックバイオレンスがどこにおいても見られ、差別やいじめが絶えることがありませんね。人は人に対しても傲慢です。どうしてブレーキが壊れた暴走車みたいになってしまってるんでしょう。正しくさばく神を見失っているからではありませんか。
神は正義の神です。そして正義とは悪を憎むという意味なのです。義なる神はこの世界をご覧になっている方なのです。

神は不経験な者を義と認める

第3に、神は救い主を信じる不敬虔な者を義と認める方だというのです。
先ほど読んだ聖書の箇所のところに、「不敬虔な者を義と認める方」とあったんです。初めてここを読んだ時ミスプリじゃないかと思いました。つまり、敬虔な者を義と認める方ではないか、まぁそれだったら納得できます。ところが何回読み返しても、不敬虔な者を義と認める方と書いてあるんです。
不敬虔な者というのは、神に反逆する罪人の別名です。悪い奴を義と認めたりなんかしたら、そりゃいかんだろう。世の中狂っちゃうだろうと思いました。もし、ただ大目に見るということで成り立つ義であるならば、それは不正な義であるわけですね。しかし、神は罪人の不義の責任を救い主に負わせることで、罪人が罪人のまま、ありのままの状態で救い主を信じるその信仰を義と認めてくださる方なのだと語るのです。
先日、SNSでおもちという人のツイートを見ました。彼女が5〜6歳の時に、今は亡きお母さんに言ったそうです。「おもちの宝物はね、虹色のビー玉。お母さんのは?」「お母さんの宝物はねえ、おもちちゃん」と返ってきたそうです。「あれから20数年経ちました。その間、何度も人に裏切られ、傷つけられ、挫折し、人間やめたろかと思いましたが、その度に、くたばってたまるか私はお母さんの宝物なんだぞと思い直して立ち直ってきました。愛ある言葉の効力は永遠だ」とツイートされてたんです。
神はあなたを宝物のようにして愛してくださっています。その宝物であるあなたが罪人に成り下がった時、神はあなたの救いのためにできることを全部してくださったのです。ご自分のひとり子イエス・キリストを救い主としてこの世に送ってくださったのです。そして、あなたの罪のためにキリストは十字架にかかって死に、墓に葬られ、3日目によみがえってくださいました。これがあなたのための救い主イエス・キリストです。
私たちに今求められてるのは難しいことではありません。簡単なこと、単純なこと、しかも一つだけなんです。この救い主イエス・キリストを信じるということです。自分の心の中にイエス・キリストを救い主として受け入れることです。今、それをなさってください。そして永遠のいのちと赦しを受け取ってください。心からお勧めします。


使用CDジャケット
Migiwa:慈しみ深き

今日のみことば
しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。
(ローマ4:5)