#1048 インマヌエルなるキリスト

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。尼川匡志です。

アメリカ、スタンフォード大学の研究チームによって興味深い実験結果が発表されていました。チームの中で個人のモチベーションを上げるためには、その人が周囲の人たちからしっかり認められ、評価されていることが大切であるというのです。同大学のグレゴリー教授は「同じ作業であっても、それぞれ個別に取り組んでいると思うよりも、一つの作業を共に取り組んでいると思うことで、やる気が大きく刺激される」と言われていました。

また別の本には、夫のやる気をうまく引き出す魔法の言葉として、妻の「一緒にやろうね」という言葉が紹介されていました。人間は一人で仕事をするよりも、協力して一緒にする方がはるかにやる気が上がるということなのです。聖書の中に「『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である」。これは、キリストは私たちとともにおられる神、であるということなんです。私たち人間と共にいてくださるキリストを、三つの視点から考えてみたいと思います。

二人三脚で歩んでくださるキリスト

まず一つ目。私たちと二人三脚で歩んでくださるキリストです。聖書に「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」ということばがあります。この中の「くびき」ということばは、二頭の牛を連結する器具のことです。表現としては少し変ですが、二頭の牛を二人三脚で歩かせるようなものです。キリストは「わたしのくびきを負いなさい」、つまりあなたの人生をわたしと一緒に二人三脚で歩まないか、と言われているということです。例えばマラソンの選手に「私と一緒に二人三脚で走ってくれませんか」と言ったら、大迷惑ですよね。私はそのアスリートにとって何の役にも立ちません。ただ負担をかけるだけの存在です。さて、キリストがわたしと二人三脚で歩もうと言われるということは、どういうことでしょうか。私はこの方のために何一つできることはありません。この方が、私の人生を丸ごと背負って歩んでくださるという意味なのです。

フットプリントという詩

フットプリントという詩があります。その中で作者が人生を振り返ったとき、キリストと自分の二つの足跡を浜辺に見つけたというんです。しかしよく見ると、足跡が一つになっている所が所々にあるんですね。それは自分が本当につらかったときだったと分かりました。主にこう訊きます。「主よ、どうしてあなたは私とともに歩んでくださらなかったのですか」答えはこうです。「わたしの大切な子よ、わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。足跡が一つだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた」。キリストは私と二人三脚ではなく、私を背負って歩んでくださる方なのです。

人生を実り豊かにしてくださるキリスト

二つ目。わたしの人生を実り豊かにしてくださるキリストです。聖書に「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます」とあります。あなたの人生を実り豊かにする実とは何でしょうか。ある人はお金、健康、地位、名誉と考えられるかもしれません。確かに、あるにこしたことはないですよね。しかしそれらは、人生を醜く傷つけ合う引き金になることだってあるんです。聖書が人生を豊かにする実と言っているのは、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。私たちがこのような実を結ぶとき、まわりの人たちにとっても幸いですが、一番幸いなのは実を結ぶその人自身です。

私は今年で結婚40年になるんです。ルビー婚式です。結婚して最初の6年は、喧嘩ばかりしていました。ののしり、悪口を言い、自己弁護し、嘘をつき、ごまかしていました。そんな実を多く結びました。これは決して私にとって楽しいことではありませんでした。しかしその後、キリストに出会い、豊かな実を結ぶようになりました。愛や寛容、親切や自制、それらの実を結ぶとき、心が軽くなり、楽しくなります。キリストは私たちを聖人君子に変えたいのではありません。私たちが豊かな実を結び、喜びにあふれる人生を歩いて欲しいと願っておられるのです。そのためにキリストはこの世界に来て、私たちと一つになってくださるというのです。

運命共同体となってくださるキリスト

三つ目です。私と運命共同体となってくださるキリストです。聖書にこう書いてあります「それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」。このバプテスマということばは、ギリシヤ語です。日本語で表現すれば、一体化です。例えば、おにぎりで言えば、梅干しがお米の中にバプテスマされたということです。おにぎりと梅干は一体化します。おにぎりが捨てられれば、梅干しも捨てられるんですね。もはや切り離すことができない関係になるんです。キリストを信じるということは、キリストに背負われて人生を歩むことであり、キリストと一つになることなんです。キリストの実、愛、喜び、平安を結ぶことです。

神と関係回復のためこの世界に来られたキリスト

そしてもう一つ大切なことがあるんです。私たちは万物の創造者である神との間に、罪を持ち込んでしまいました。その結果、私たちは神と断絶してしまったのです。いのちの主権者と断絶した結果、人間は死ぬものとなりました。この私たちが神と関係回復できるために、キリストがこの世界に来られたのです。そして私たちと一つになるため、まず神との間の罪を処分されました。罪が無くなるために派閥を受ける必要があるんですね。殺人罪で懲役20年の罰を受ければ、その罪は消えます。キリストはこの私の罪の罰を受けてくださったのです。その場所が十字架です。キリストを信じた私たちは、キリストの中にバプテスマされました。キリストの中にあって罪の罰を受けたのです。ですから私たちの罪は赦されたというのです。キリストが私とともにいてくださる。そのことは私の人生を大きく変えます。インマヌエルなる方、私たちとともにいてくださるキリストを是非信じてください。心からお勧めしたいと思います。


使用CDジャケット
向日かおり:インマヌエル|あなたと共にいる

今日のみことば
見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。
(マタイ1:23)