#1045 人が死後に行くところ

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

高校時代私は、坂本龍馬にはまっておりました。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』を読んだからです。そんな私を見た友人が「一緒に京都をめぐって、竜馬ゆかりの地を回ろうじゃないか」と誘ってくれたんですね。
彼は、私よりもはるかに竜馬の知識に詳しく、その知識には私も舌を巻いておりました。それで二人で京都に行ったのですが、正直さんざんな目にあったのです。実は、彼は京都に行ったことがなかったのです。近くまで行っても迷うことが多く、遠回りや方向違いでひたすら歩き回った割には、ほとんどお目当ての場所を見ることはできなかったのです。一回も京都を観たことがない人に京都案内をしてもらうことでひどい目にあったのです。
ところで、私たちは死を迎えると死後の世界に行きます。ところが、この死後の世界のことについては、人によって言うことがまるで違うのです。みんな確信をもって「輪廻がある」とか、「無になる」とか、様々なことを教えてくださるのですが、一つ共通して言えることは、皆さん生きている人ばかりで、死後の世界に一度も行ったことがない方ばかりだということです。一度も行ったことがない人に、行ったことがない場所を説明してもらっても、果たしてそれは信用できるものなのかどうか極めて疑わしいと思うのです。
しかし、聖書は神の言葉です。人の言葉ではなく全知全能者の知識です。そして、人となられた神、イエス・キリストは、一度死んで死後三日目によみがえった救い主です。この主なる神の言葉が死後の世界について語っている言葉こそは、聞くに値するものだと思うのです。聖書は次のように語っています。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。

ここから三つのポイントでお話いたしましょう。

聖書以外の死後の考え

第一に、聖書的ではない死後の考え方とは何かということです。
一般に死後の世界と言うと、無になるという考えと、だれもが無条件にお花畑のような天国に行くという二つの考えがあります。無になるという考えは、ギリシャのエピクロスが言い出したものです。彼は「死は存在しない」って言うんです。と言うのは、生きている間、人はまだ死んでいないので彼にとって死はないと言える。死ねば本人はもういなくなっているので死について認識をすることができない。だから、死人にとっても死はないというのです。
この考えはギリシャ哲学者らしい論理を操った詭弁ですね。それは、死んだ後、無になるという前提でのみ成り立つ考えなのです。しかし、彼はそれを裏付けるものを何一つ示さないのです。
もう一つの考えは、人は死ねばみな天国に行くという考えです。最近、特にこれらが多いのは、臨死体験をなさった方々が口々に「死後の世界は美しかった。ガーデンのようだった」と言われるからです。しかし、この証言は客観的事実とは言えないものです。実は臨死体験者達はガーデンに行く前に境界線を渡るのですが、そのイメージが日本人では三途の川になり、砂漠地帯のアラブ人では燃える砂漠になり、海に囲まれたポリネシアでは荒れ狂った海だと言い、切り立った崖が多いスコットランドでは断崖絶壁だったと言うんです。つまり、その人が生まれ育った自然環境や文化が、そのまま反映されているのです。
もし、人が死んだ世界に本当に言ったのであるなら同じ景色を見るはずです。ところが、実際には生きていた時に見聞した体験がそのまま出てきてるんですね。どうやら死後の世界そのものを見たとは言えないようなのです。
聖書は死後は無になるとはもちろん言いません。また同時に皆が無条件にお花畑のようなところに行くとも言わないのです。ではどのように言ってるんでしょう。人が行くべき行先は二か所あります。どちらかです。

第三の天

第二番目のポイントは、キリストによって罪赦された人が行くところです。それは第三の天と言われているところです。
神と人との間に壁となっていた罪は、キリストが全部取り除いてくださいました。したがって、このキリストによる罪の解決を得ている人たちは、もはや神との間に平和が成立しているので、すぐさま、直ちに、キリストがおられる天に迎えられるのです。
ただし体はお墓の中にありますね。この体は、キリストが再び来られる時に墓からよみがえらされ、栄光の体に復活するのです。その栄光の体とは病気にならない体、老いることもなく、何より罪を犯さないキリストに似た体なのです。
この体を持った人々は、歴史の最終ゴールである新しい天と新しい地に入って永遠に住まうことになるのです。

白き御座の裁き

第三に、罪の解決を持たずに死んだ人々は「よみ」という場所に行きます。それは魂の拘置所のようなところなのです。
最終的な罪の刑罰を受けるところではありません。それでもそこは大変に苦しい場所だと聖書は語るのです。
この世の中でも罪を犯した人々はまず拘置所に入れられ、判決が決まると最終的な場所、刑務所に行きます。それと同じように、「よみ」に拘置された人々の魂は、やがてこの世界に実現する、千年間続くキリストの王国の最後に、肉体をもってよみがえるのです。
そして、いわゆる最後の審判、白き御座の審判に、一人一人が立って審判、ジャッジを受けるというのです。その裁きの後、燃える火の池に投げ込まれると聖書は語っています。そこで、一人一人自分のした行いに応じて裁きを受けることになるのです。
つまり、人間が最後の最後に行く所は、最善の場所か最悪の場所か、このどちらか一つです。新しい天と新しい地なのか、永久の地獄なのか、二つに一つです。これ以外にはありません。そして、そのどちらをも今私たちは選ぶことができるのです。
神はあなたを心から愛しておられる方です。なので、どんなことがあっても、神が用意された罪の解決を受け取ってほしいと、切実に願っておられます。
そして、この神が用意された罪の解決は、イエス・キリスト以外にはありません。どうぞこのイエス・キリストを救い主として信じてください。そして死後の世界、自分が行くべき所は究極の天国、究極の祝福の場所であるというこの輝かしい未来をまず得てください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
国分友里恵:天の喜びと無限の愛を

今日のみことば
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。
(ヘブル9:27-28)