ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
今から三年ほど前、日本有数の投資家竹田和平さんという方がなくなられました。日本の上場企業100社以上の大株主で、時価総額130億円以上の大富豪です。
この方のすごいのは、バブル崩壊のときも全く傷を負わなかったことで、よみの深さでは他の追随を許さない方なのです。
あるとき、彼が部下と一緒にうどん屋さんに入って、うどんとおにぎりのセットを注文しました。炭水化物のコンビネーションですが、これがこの方の大好物なのです。
ところが店員さんから、ぶっきらぼうに「おにぎり売り切れです」と言われたのです。
さて、そのとき彼はどう言ったでしょう。いや、もしあなたが食べようと思っていたものが「売り切れだ」とそっけない態度で言われたら、お店の人にどう言われますか。
「残念」でしょうか、「別の店に行きなおす」と言うでしょうか。あるいは「仕方がないな」とつぶやきますか?
竹田さんの一言はこうです「そりゃぁ、おめでとう」。
目当てのものを食べそこなったのに、どうしてめでたいのでしょう。売り切れってことは、今日、満員御礼だったということですね。それに対しての「そりゃぁ、おめでとう」です。
客から見たら売り切れは、残念な現実になりますが、店から見たら「完売」といううれしい現実になるのです。実に竹田さんは、お客なのにお店の立場に立って喜んでいる。
どうしてこんなにも、相手の立場に立って喜ぶことができるんでしょう。大富豪だからです。余裕があるからです。気持ちが広い状態でいれるからです。
そしてこの宇宙の中で、だれよりも気持ちが広く、だれよりも偉大で、富んでいて、余裕がある方は、全知全能の創造主なる神なのです。
したがって神様という方は、あなたを思いやり、あなたの立場を理解し、あなたの祝福をだれよりも願い、あなたの人生の成功を、自分のことのように喜び、あなた自身を喜んでくださる方なのです。
この祝福に満ちた唯一の主権者なる神様のことばを、今日ご紹介いたしましょう。
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として、公に示されました。
ここから三つのポイントでお話しいたしましょう。
すべての人は罪を犯した
第一に、すべての人は神の前に罪人である、ということです。
ところで法律というものは、国によって違いますね。アメリカでは交通ルールは州によっても違うそうです。
ハワイでは赤信号でも車は右折してOKです。しかしオレゴンでは対向車線にスクールバスがストップすると、反対車線の車はすべて停車しなければなりません。子どもたちの安全を守るためです。
ある国ではやっても許されることが、別の国では許されないということがあるのです。
ある独裁国家では、支配者の気分一つで、逮捕状なしの連行が横行していますね。しかし法治国家では、絶対に許されないことです。
それと同じように、罪人の世界では常識として許されることであっても、きよい神の前には見過ごしにはされない罪というものがあるのです。
ではいったいどんな罪が、聖書の語る最大の罪なのでしょう。
聖書の中に「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。これが第一の戒めです」とあります。
第一のルールは、神をいついかなるときも、第一として生きることです。
ところであなたは、これまでそのようにして来られましたか?もしそうでないなら、あなたは最も重要なルールを破っていることになるのです。
そしてすべての人は、自分の造り主を第一にして生きて来ませんでした。神を無視して生きて来たのです。
それで聖書は語るんです。「すべての人は罪を犯した」と。
十字架は私たちの償い
第二に、神は私たちの罪の償いを、キリストにさせてくださったのです。それがキリストの十字架です。
この手紙が書かれた時代、十字架処刑がまだ現役で採用されていました。しかしこの処刑方法は、すべての犯罪者に適用されたのではありません。とびっきり極悪な罪人で、しかもローマの市民権を持たない、貧しい人々が受ける処刑方法だったのです。
現在日本では死刑は、密室で行われます。しかし十字架は、公の場で実施されたのです。
裸にされ、鞭打たれ、処刑前にさんざん辱めを受け、そして公衆の面前で、たった三本の釘を両手両足に打ち貫かれて十字架にかけられたのです。
もしその現場に親子がいたら、きっと父は息子にこう言ったことでしょう、「ご覧、息子よ。おまえは大きくなったらこんな人間にだけはなってはいけないよ」。
痛みと屈辱、そして恐怖の極刑、それが十字架です。そしてキリストは、この十字架にかかられ、この十字架の上で死んでくださいました。
それは私たちの罪を、私たちに代わって償うための死であったのです。
なぜ、そうだと言い切れるのでしょう。通常の死ではなかったことの証明として、キリストは死後三日目に復活し、この十字架の死の意味を説明し、立証なさったからです。
信頼したくなる誠実さ
第三に、このキリストの十字架と復活による救いを、聖書は信仰によって受けるべき事実だと宣言するのです。
漫画家の赤塚不二夫さんが、超売れっ子の時代、担当者が預かった原稿を紛失するという大失態をやらかしたことがありました。会社としても重大事件ですね。
担当者は一生懸命探すのですが、とうとう見つけることができず、意を決して謝りに行ったのです。
すると赤塚さんは何にも言わずに、書きかけていた別の雑誌の原稿を途中でやめて、もう一度書いてくれたのです。
そしてその原稿を渡すとき、一言こう言ったそうです。「二度目だから、一回目より良く書けたと思うよ。」
ミスについては一言も触れず、何もとがめだてしないで、彼の致命的なミスをカバーしてあげたというのです。
この赤塚さんのあったかい行動に触れた担当者が、大の赤塚ファンになったのは言うまでもありません。そしてこの人について行こうと決心したのも、当然のことだと言えるでしょう。
人は途方もない真実に触れると、その人は信用できると判断するのです。本物の誠実に触れると、思わず信頼したくなるのです。
そしてこの世界の中で、イエス・キリスト以上に、罪人に真実と誠実を尽くした方は、いないのです。この方を信ずべきだという招きは、まことであり、そのまま信ずるに値する言葉なのです。
いかがでしょう。どうぞあなたも、イエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れ、そして永遠のいのちと、完全なる罪の赦しをいただいてください。心からおすすめいたします。
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
神はこの方を、信仰によって受けるべき、血による宥めのささげ物として公に示されました。
(ローマ3:23-25)