#987 真の楽しみを与えて下さる神

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。那須清志です。

聖書の中に「私たちにすべての物を与えて、楽しませてくださる神」ということばがあります。
今日は神が人間に与えてくださる楽しみ、について考えて行きます。
まず見る楽しさです。昨年の秋、友人たちが紅葉を見るために京都に行きました。
写真教室の活動だったので、撮った写真をたくさん見せてもらいました。
「とってもきれいですねー」と感動して話すと、そこに言ったある人が「実は今年はあまり紅葉がきれいじゃなかったんです」と言うのです。
「でも、写真見たらきれいですよ」と言うと、
「あれは写真だからです」と言うのです。
驚きました、本物よりも写真のほうがきれいなんて。
写真をパソコンで加工してきれいに見せる、というのは前からありました。
でも今は、写した瞬間にカメラの中で画像を処理して、きれいに見せているんですね。
当然の成り行きかも知れません。私たちはきれいなものを求めます。きれいな写真を好みます。
その人間の願望を、今のカメラはかなえてくれるんですね。

見飽きることのない風景

聖書は、色鮮やかなこの自然を創造した神について語ります。
創造主が私たちに色を感じる感覚器を与えてくださったからこそ、私たちは色を楽しむことができるのです。
永遠の神は永遠の美しさについてヒントを与えています。
美しい夕日を、私たちは何度見てきたことでしょう。
そして見飽きるということがないのです。
いつも見て感動が薄れるということがあっても、何度も見ているから飽きてしまった、もう見たくない、とはならないのです。
それほど神が用意されたものは完全で、私たちの目を楽しませてくださいます。

食べる楽しみ

次に食べる楽しさです。神は食べることを通して人間に喜びを与えて下さっていると思います。
私には子供が5人います。子供が大きくなるにつれて、家庭での話題はどんどん変わって行きます。
兄弟たちや友人たちと楽しく過ごすときに、必ず出て来る話題は、食べ物です。
男性陣はラーメンや焼き肉、女性陣はインスタ映えする食事やスイーツ、おいしい料理があれば、交わりも大いに盛り上がりますね。
私はときどき思います。料理がなければどれほど楽しみが減るだろうかなと。
食べるということが、もし栄養を補給するだけの行為だったらどうなるだろう。
栄養ドリンクやサプリメントだけのような物ですます食事だったらどうだろう。
噛み応えもなく、舌触りもすべて同じような食べ物ばかりだったら、なんと味気ないものでしょうか。

神のアドバイスを聞く

世界に影響を与えたクリスチャンで、英語名でポールと呼ばれるパウロは次のように神について説明しています。
神は「あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え、食物と喜びであなたがたの心を満たすなど恵みを施しておられたのです」と。
私たちをつくられた神は、私たちに食欲を与え、それを満たす食べ物を地上に備えて、私たちに楽しみを与えておられます。
飽食を繰り返し、グルメを追い求めることを、神は望んでいませんが、食事が備えられ、それを楽しむようにされた神に感謝をすることは人間に勧められています。
同時に「人はパンだけで生きるのではない」という、イエスのことばも聞かれたことがあるでしょう。
もちろんこれは、パンだけでなくご飯も野菜も食べなさいという意味ではないですね。
その後に続く、「人は神の口から出る一つ一つのことばで生きる」ということを言いたいのです。
たましいを持つ人間が、真の意味でいきいき生きるためには、神からのことばを参考にすることが絶対に必要だ、と語るのです。
私たちを作り、だれよりも私たちのことをご存知な方のアドバイスに耳を傾けるというのは、一番理にかなったことではないでしょうか。

神との交わり

三つ目に人と交わる楽しさです。
私たちはいろいろな人と出会い、話し、親しくなることによって励まされたり、慰められたりしていくものです。
長生きや健康のカギとして必ず挙げられるのは、家族や友人たちとの関係がよくて、楽しく交わっているということです。
人は人と関わることで楽しみ、元気になるのです。
私はコル・シャロームというコーラスグループを作って、毎年東北へボランティアにうかがっています。
昨年は西日本でも大きな災害があり、そちらにも行きましたが、やはり東北は特別なんです。
それは単に何度も行ったからというだけではなく、親しく交わっている方々がたくさんいるからです。
一年に一度会って元気に過ごしていることを確認して、いろんなことを話すにつれて関係が深まっていくことを実感します。
そして私たちも生きる力をもらうことがしばしばなのです。
横の関係、すなわち人間同士の関係を軽く見る人は少ないと思いますが、聖書はそれに加えて、いや、その前に、縦の関係、すなわち神と人間との関係をとても重んじています。
神によって造られた私たちが、造り主なる神と和やかな関係に入らなければ、真の喜びを、永遠の平安をいただくことはできないと言っているのです。

私たちの状態で変わるもの

以前、高速道路のサービスエリアで休憩しているとき、パトカーをはじめ多くの警察車両が駐車していました。
その中に、珍しいスポーツタイプの車がパトカーになっているのを見つけたのです。
近くにいた警官に「こんなパトカーもあるんですね」ときくと、
「インプレッサのパトカーね、日本にもう一台、どこかの警察が持ってるみたい」と言うのです。
日本に二台だけかと思い、この車が好きな息子に自慢しようと「写真撮ってもいいですか」とききました。
「どうぞ、良かったら乗ってもいいですよ」と言うのです。
それならということで、生まれて初めてパトカーに乗りました。それも運転席に。
私たちは普段何もないときには、普通に警察官と話し、困ったときには強い味方にもなってもらえます。
しかしいつもそうとは限りません。実はその後、サービスエリアを出て高速を走っていると、覆面パトカーに遭遇したのです。
スピードを出していた数台前の車を、猛然と追いかけ始めました。
そのときはビビりました。私も法定速度を超えて走っていたからです。
警察自体は変わらないのですが、私たちの状態いかんで、警察をうっとうしく感じたり、逃げたいと思ったりするのです。

罪の解決の救い主

これは私たちと神との関係と似ています。創造主なる神は永遠なる方で、まったく変わりません。
愛なる方で、いつも私たちのことを心に留めておられます。変わるのは私たちなのです。
私たちが神から離れ、神を無視し、自分を傷つけ、人を傷つけます。そして神の前に後ろめたい気持ちを抱いてしまうのです。
素直に神を喜ぶことができなくなります。神から与えられた喜びを謳歌できなくなります。
そのような状態のことを聖書は、罪の状態にある、といいます。
冒頭のことばで、「神は私たちにすべての物を与えて」とありましたが、神は不完全になってしまった人間のために、救い主イエス・キリストをこの地上に遣わしてくださいました。
イエスは「天から下って来たパン」とご自分を紹介されましたが、まさに人々から食されるような生涯でした。
人々を助けるために人生を使い、最後は私たちの刑罰の身代わりに、十字架の上で裁かれてくださったのです。
十字架というのはもともとは残酷な死刑道具ですが、今はこの十字架を見るように勧められています。
イエスの十字架上の死は、単なる処刑ではありません。
神が私たちに、人間の罪を処分するためにイエスが代わりに裁かれたのであって、私たちにとっては罪の赦しの根拠なのです。
そしてもう一つ。救いの根拠は、イエスの三日後の復活です。
神はイエスを死者の中からよみがえらせることによって、十字架のイエスの死が、特別なものであったことを人類に示されました。
そして500人以上の弟子たちが、イエスの復活をその目で見たのです。
ぜひあなたも、イエスを救い主と信じて、神の救いを受け取ってください。
そして永遠に変わることのない、真の楽しみを味わってくださいますよう心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
国分友里恵:心から主を喜ぶ

今日のみことば
今の世で富んでいる人たちに命じなさい。高慢にならず、頼りにならない富にではなく、むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置き、
(1テモテ6:17)