
ごきげんいかがですか。那須清志です。
アメリカではトランプ大統領の2期目の政権がスタートしました。ここまで評価が真っ二つに分かれた大統領もいなかったのではないかと思います。熱狂的支持を表明する人たちもいるかと思えば、アメリカを出たいと思うほど嫌がっている人たちもいます。さて、評判という意味で、この番組の主人公ともいうべき「イエス」についてはどうでしょうか。命をかけても惜しくはない、と思う人もいれば、憎き、呪われるべきものと見なしている人もいます。あなたはどうでしょう。「イエスはすばらしい人、立派な人、聖人だ」などと言われることもしばしばです。ところが、その評価には少し問題があります。失礼ないい方かもしれませんが、イエスに関する情報がきちんと伝わっていない可能性があるのです。
今日は、イエスはどのような方か考える上で大切な情報を三つのポイントで考えていきます。
イエスは人の姿をとられた創造主
第一に「イエスは創造主が人の姿をとられて地上に来られた方」ということです。パウロは次のように言っています。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。」神が人の姿をとったなんて、おとぎ話やファンタジーの世界ならまだしも、現実の世界でそんなことを信じてる人がいるのでしょうか。実はたくさんいます。世界中で一番多く人に受け入れられているキリスト教は、基本的にそのことが土台の一つになっています。彼らは「イエスは立派な人だ」というにとどまりません。イエスは神で、同時に人であったと評価しています。そもそもパウロはかつてイエスに敵対していました。創造主の存在、偉大さを教えられていたユダヤ人パウロは、復活したイエスに出会うまで、神が人の姿をとって来られたと信じるクリスチャンたちを攻撃し、迫害し、命まで奪っていたのです。イエスを「尊敬すべき素晴らしい人」と評価する人が、続けて「人となられた神でもあった」と言うのをほとんど聞いたことがありません。イエスの一部分だけを取り上げて、評価を下してるということになります。
イエスは神と等しいと自ら宣言された
第二に「イエスは創造主なる神と等しいものであると自ら宣言された」ということです。イエスの時代から2000年も前の人であるユダヤ人の先祖アブラハムを引き合いに出し、イエスは次のように言われました。「アブラハムが生まれる前からわたしはいるのです」と。また「わたしと創造主なる神である父とは一つ」とも言われました。これらの宣言を聞いて敵対するものたちは叫びました。「冒瀆だ。人間でありながら、自分を神としている」と。
人間の歴史の中で王や支配者のレベルを超えて「自分が神だ」と宣言した人に対して私たちはどんな評価をするでしょうか?たとえそれなりの偉業を成し遂げたとしても神とは認めませんし、欠点の多くがいずれ暴露されていきます。その大部分がカルト集団の指導者のように、影響は一時的で、ほとんどが多くの人々を悲惨な状況に巻き込んでいくのが落ちです。天地万物を創造した神であると宣言した方を「立派な、すばらしい方」と呼んでもいいのでしょうか。単なる嘘つきではありませんか。誇大妄想に取り憑かれている正常な感覚を持っていない人と見なすのが普通ではないでしょうか。
というわけで、イエスに対する評価のうち「すばしい・立派・人格者」という評価は一番ふさわしくないものであることがわかります。イエスに対する評価は二者択一です。「うそをついている人か、言ったとおりの神か」です。好意的に受け止め「イエスは自分で真剣に信じ込んで、単純、純粋に生きた」と言う人もいました。しかし、イエスは他の箇所で理路整然と論じ、また驚くほどの謙遜と知恵と愛をもってあらゆる階級の人に接し、すばらしいメッセージを残しているのです。トータルでその生涯をみたときに「単なる信じ込みの強い人」とは思えないのです。
またイエスは生前、自分が神であることの証拠として数多くの奇跡を行われました。敵対者もその事実を認めはしたものの、イエスを神の似姿、神からの救い主としては受け入れませんでした。多くの奇跡は、悪魔の力を使って行ったと責めたのです。彼らはイエスを嘘つき、冒涜者と見なしました。単なる「立派な人」と評価していないことに注目してください。
イエスは自分の命を身代わりにささげられた
第三に「イエスは自分のいのちを人間の身代わりにささげるために来られた」ということです。イエスは言われました。「仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」と。「神がいるなら見せてくれ」と言う人がいます。実は、2000年前、神は人の姿を取られ、人に見える形でこの地上に来られました。ただ、それは人をひざまずかせるためではありません。神の性質は愛です。愛する人間に救いを与えるために来られました。神のご性質は義です。人間の罪を負うために来られました。十字架で人間の身代わりに死ぬことにより、神のさばきは実行されました。必ずさばかれなければならなかった私たちの罪は、あの十字架の上で完全にさばかれました。ここに「神の愛と義」の両方が、ともに満足いく形で全うされたのです。
実はイエスに関わる最大の奇跡は、十字架の後に起こりました。十字架での働きを完全に終えられたイエスは、神は死後三日目、墓の中から復活させて、人々の前に立たせてくださったのです。ここでもまたイエス自身のことば「私は道であり、真理であり、いのちなのです」の真実性がまさに示されました。この死後、復活し、40日後天に帰って行かれたイエスは今も生きて私たちを招いておられます。
あなたが聖書のメッセージを真摯に受け止め、イエスに対する評価を下すとなると、選択肢は二つに一つです。救い主なる神として受け入れるか、人騒がせな嘘つきとして退けるかです。もちろん、イエスが神からの救い主であることを理解し、受け入れ、あなたが永遠の救いを得ることを私は心から願っています。「わからない」と言う人もいるでしょう。評価を先延ばしにする気持ちもわかります。しかし、以前持っていたような「すばらしい、立派な、尊敬すべき人」などというところでとどまってほしくありません。ぜひ、求め続けてください。神はあなたの心をご存じで、私たちが心の底から求めるときに必ず、その祈りに応じてくださいます。イエスを正しく評価して、この方を通して与えられる救いをご自分のものとしてくださいますように。心からお勧めいたします。
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、
人間と同じようになられました。
人としての姿をもって現れ、
(ピリピ2:6-7)