#1077 人の苦しみを痛まれる神

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。尼川匡志です。

先日、吉野弘という方の「夕焼け」という詩を読みました。
こんな詩です。

いつものことだが
電車は満員だった。
そして
いつものことだが
若者と娘が腰をおろし
としよりが立っていた。
うつむいていた娘が立って
としよりに席をゆずった。
そそくさととしよりが坐った。
礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
娘は坐った。
別のとしよりが娘の前に
横あいから押されてきた。
娘はうつむいた。
しかし
又立って
席を
そのとしよりにゆずった。
としよりは次の駅で礼を言って降りた。
娘は坐った。
二度あることは と言う通り
別のとしよりが娘の前に
押し出された。
可哀想に。
娘はうつむいて
そして今度は席を立たなかった。
次の駅も
次の駅も
下唇をギュッと噛んで
身体をこわばらせて---。
僕は電車を降りた。
固くなってうつむいて
娘はどこまで行ったろう。
やさしい心の持主は
いつでもどこでも
われにもあらず受難者となる。
何故って
やさしい心の持主は
他人のつらさを自分のつらさのように
感じるから。
やさしい心に責められながら
娘はどこまでゆけるだろう。
下唇を噛んで
つらい気持ちで
美しい夕焼けも見ないで。

日常的な風景を切り取り、自分の世界を作り上げる詩人の感性に感動します。私はこの詩に描かれている一人の少女の気持ちに心が動きます。若かった頃、満員電車の中で誰もが経験したこと。自分がやさしい心だとは言いませんが、席を譲ったことも、また気恥ずかしくて譲れなかったことも私の記憶に残っています。人間の中にあるやさしさと照れくささ、そして自分を守ろうとする自己中心、その中で揺れ動く感情をみごとに表しているなあと思いました。

人のつらさ

詩の中にこんな一文があります。
「やさしい心の持主は他人のつらさを自分のつらさのように感じるから。」
ここを読む時、私はキリストの心を思い出します。キリストは私たち人間のつらさを自分のつらさと感じ、そしてその人間のつらさを除くため、神であられるのに人として、この世界に来られました。
今日はそんなキリストのことを考えたいと思います。

ある女性とイエス

ヨハネの福音書にこのような記事があります。
ある日の早朝、エルサレムの神殿の中で起こったことです。イエスのまわりには話を聴くため人垣ができていました。この人垣を割って、数人の男が無遠慮に入ってきます。律法学者とパリサイ人たちです。彼らはあられもない姿の一人の女を連れていました。この女をイエスの前に立たせ、彼らはこう言いました。「先生、この女は姦淫の現場で捕らえられました。モーセは律法の中でこういう女を石打ちにするように私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」その時、イエスは身をかがめて、指で地面に何かを書き始められました。不可解な行動です。律法学者たちはしつこく「あなたは何と言うのか。」と問い続けます。その時、イエスは身を起こしてこう言われました。「あなた方の中で、罪のない者がまずこの人に石を投げなさい。」すると年長者からその場を離れ、結局この女とイエスが残されました。イエスは言われました。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは決して罪を犯してなりません。」
三つのことを考えます。一つ目は姦淫について。二つ目は責める人たちについて。そして三つ目、イエスの取られた不可解な行動について、です。

姦淫について

まず、姦淫について考えます。
この当時、姦淫は律法によれば、石打ち、死刑でした。今の不倫が溢れているこの世界でそんなことを言ったら大変です。死刑かどうかは別として、姦淫はあってはならないことです。本来家庭とは夫婦が愛し合い、親子が労わり合える場所です。それが今崩れているんですね。その結果、様々な問題が起こっています。
聖書はその原因は、自己中心の罪だと言います。しかし、誰も真摯にこのことばに耳を傾けません。原因がなくならない限り、結果もなくならないのです。昔も今も、姦淫はあります。そして誰かが傷つけられています。この女性がなぜ姦淫を犯したのかはわかりません。売春ではなかったかというふうにも言われています。おそらく彼女を囲む環境は、決して良いものとは言えなかったでしょう。貧困、別離、借金。いずれにしても彼女が望んでこの世界に入ったわけではないはずです。そしてこの日、その現場を押さえられ、引きずり出されたのです。

責める人について

二つ目、責める人たちについて考えます。
律法学者、パリサイ人たちは、この女を責めました。先ほどまでイエスの話に心を潤されていた人たちは、口には出しませんが、心の中で女性を責めたと思います。「だらしないひどい女だ、汚れている。」と。しかし、誰もが自分の中にある汚い部分に蓋をしていました。私たちは人を批判する時、自分は正義の立場にいます。まじめで正しいと考えているんです。
しかし、本当にそうでしょうか。私の中には、不品行な思いや貪欲やむさぼりはないでしょうか。イエスのひとことはそんな彼らに自分の心の中を見せつけました。「罪のない者がまず石を投げよ。」自分のうちにある罪に気づいた者たちから、その場を去って行きました。

イエスの行動について

三つ目、イエスの取られた不可解な行動についてです。
イエスは地面に何かを書かれました。何を書いていたのかは、わかりません。女が恥ずかしさの中で立ちすくむ、その前でうなだれ、地面に伏されたのです。まるでこの女の痛みや恥ずかしさが、自分のものであるかのようにです。人々は全員去り、女は残りました。イエスは彼女に言われたんです。「わたしもあなたにさばきを下さない。」この場所にいた全員が自分のうちに罪を持っていました。だから立ち去ったんです。
本当なら、全員がイエスの「わたしはあなたにさばきを下さない。」というメッセージを聴く必要があったんです。イエスは女の罪をうやむやにしたのではありません。その罪を自分のものとして、十字架の上で葬り去ることを決めておられたんです。結局このイエスのメッセージを聴いたのは、罪に打ちのめされた、みじめなこの女性だけでした。
あなたはどうされますか。罪ゆえに立ち去りますか。罪のゆえに立ち止まられますか。彼女のようにイエスに留まってください。赦しのメッセージを聴いてください。私たちの中のつらさを自分のつらさとしてくださる、このイエスを信じてください。心からお勧めしたいと思います。


使用CDジャケット
国分友里恵:私を愛して

今日のみことば
彼女は言った。「はい、主よ。だれも。」イエスは言われた。「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」
(ヨハネ8:11)