#1165 重荷からの解放者

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

先日、伝え方について教える本を読んで感心しました。ある山の中のコースでは、バイクや車の事故が頻発していたと言うのです。スピードの出し過ぎで、カーブを曲がり切れないで事故を起こしてしまうんですね。それで警告の看板を立てました。「スピード落とせ!」「事故多発!」ドキッとするような内容ですが、そういう看板を立てたんです。しかし、ほとんど効果がありません。ところが、少し言葉を変えただけで劇的に事故が減ったって言うんですね。何と書いたんでしょう。「病院まで2時間」。
ここで事故を起こすと病院搬送に2時間かかりますよという意味ですよね。これはドライバーたちの心に届いたのです。なぜなら、それはお説教の言葉ではなく、ドライバーの身になって語りかけてくる言葉であったからです。
聖書はお説教の本ではありません。創造主なる神様が、人に親身になって語りかける愛のメッセージなのです。さて、ある時キリストはこう言われました。

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

ここから、人が背負っている三つの重荷を、キリストが解決してくださるのだということについてお話ししましょう。

第一の重荷:日々の思い煩い

第一の重荷は日々の思い煩いです。
私たちは、毎日毎日何かを心配しながら生きているような気がします。どうやってローン返す、どうやって子どもを育てて行くのか、どうやって老後の生活を守っていこうか、心配していくと、きりがありませんね。将来に対して計画を立てたり、前もって備えをするということは大切なことですが、備えても備えてもまだ足りないと切羽詰まるようであるならば、それは持ち物の問題ではなく、心の問題になります。完全な平安は、持ち物の量で獲得することはできないのです。
クリスチャンの精神科のドクターに柏木哲夫さんという方がいらっしゃいます。この方が著書の中でご自分の関わった二人の強迫神経症の患者さんのことを紹介してらっしゃいました。
一人は17歳の男子高校生で、手が汚れていると感じて一日に30回以上手洗いしないと気持ちが落ち着かないと言うんです。体の汚れも気になって、お風呂も2時間以上入って洗いまくるんですね。そんなことに時間がかかってしまうので、学校に行けなくなってしまったんです。
もう一人の方は25歳の男性の方で、みかん農家でお父さんの手伝いをしていました。収穫したみかんを大と小に分けるという作業があるんですが、それができないと言うんです。と言いますのは、ベルトコンベアーに乗ってやってくるミカンの中には中くらいのサイズのものがあるんですね。それを大なのか小なのか、それを決めることができずに作業が苦痛でたまらないって言うんです。お二人とも治療を受けて軽快したのは幸いなことでした。
さて柏木先生によると、強迫神経症の方に共通しているのは、決断の回避だと言うんです。大にしておこう、小にしておこう、という決断を回避して作業ができないということなんですね。これも決断しないということです。なぜ決断を回避するんでしょう。決断した結果、マイナスが自分の身に降りかかってくるということを、どうしても想定してしまうからです。
しかし、たといマイナスがやってきたとしても、そのマイナスをもプラスに変えてくださる神様がおられるのだという信仰を持ってる人は、自分の決断を過大評価しないで、委ねることができるのではないかって言うんですね。この神に委ねるということが、色んな心配をぐんと軽くする秘訣なのだとおっしゃるのです。
人生は私の決断だけで決まるんではないんです。私の決断と神の恵みで成り立っています。私の人生を良くしたいと願っている神を信じるということは重荷の軽減になるって言うんですね。

第二の重荷:罪責感

第二に罪責感という重荷からの解放です。
かつて宗左近(そう さこん)という詩人がいました。詩だけではなく、評論家であり、フランス文学者であり、翻訳家でもある方です。実に活動的、そしてしばしば破滅的なところのある方でした。本名は古賀照一という方です。なぜ「宗左近」というペンネームにしたのでしょう。
昭和20年5月25日、東京は大空襲を受けます。そしてその大空襲で彼は母親を亡くすのです。上から雨あられと降ってくる焼夷弾を避けて、彼はお母さんと一緒に墓地の中に逃げ込むのです。ところがこの墓地の周りにも焼夷弾がさく裂し、周りは完全に炎に取り囲まれてしまうのです。一本道だけが脱出の道です。彼はそこを走り抜けて脱出しようとした際にお母さんが転倒してしまうのです。そして立ち上がれないんですね。おそらく足をくじいたんでしょう。その時にお母さんが「行け、走り抜けなさい、私にかまうな」その叫びに答えるがままに、彼は母親を炎の中に置き去りにして逃げてしまうのです。それがお母さんとの別れとなりました。
それからの彼は荒れた生活に落ちていきます。酒に溺れ、女性に走り、破天荒なことをやります。いったい何が彼を破滅的生活に追いやったのでしょう。罪責感です。彼のペンネームは「そうさ、こんちくしょうだよ、このおれは」。この「そうさ、こんちくしょう!」、「そうさこん(宗左近)」というペンネーム、ここからとったんですね。自分に対する軽蔑と叱責の言葉なのです。
罪の重荷は私たちをつぶします。いったい誰がこの罪を取り除いてくれるんでしょう。キリストなのです。キリストはあなたの罪を背負って、十字架の上で罪の赦しを完成させてくださったからです。解決はキリストの中にのみあるのです。

第三の重荷:死の恐怖

第三に死の恐怖という重荷です。人は死ねばどうなるでしょう。無になってしまうんでしょうか。
発明王エジソンはこういうふうに言っています。「私は、死後の命の継続を信じています。これは単なる希望的観測ではありません。理性による論理的結論です。この自然界においては、ロベルト・フォン・マイヤーやジェームズ・ジュールらによってエネルギー保存の法則が発見されて以来、存在するものが完全にゼロになるということはないということが分かっているからです。」まあ難しい言葉を使ってらっしゃいますけど、エネルギー保存の法則というのは、熱力学第一の法則とも言われているものですね。エネルギーというのは形を変えて存在し続けるというわけです。
たとえば木を燃やすと灰になりますが、これはエネルギーの観点から見ると、別のエネルギーに姿を変えたにすぎないんです。木が燃えると、熱エネルギーと炎という、光エネルギーと、パチパチと燃える、音エネルギーが発生します。これら放出されたエネルギーはCO2に姿を変えたり、気温を上昇させたりしますね。
すべて存在するものは、別の姿に変化して存在し続けるという考えです。エジソンは人間の魂をエネルギーだと考えました。泣いたり、笑ったり、喜んだり、怒ったり、そういうふうにエネルギッシュに生きてる、それは命があるからだ、魂はエネルギーなのだと考えたんですね。だから死んでも別の形で存在し続けるって言うんです。
聖書はもっと正確に人の死について語っています。人の体は土の中で朽ちていったとしても、魂は永久に残ります。この永久に残る魂の行き先を、神の国「天国」にするためにキリストは十字架にかかり、墓に葬られ、三日目に復活してくださったのです。
どうぞ、あなたもキリストを信じ、日々の思い煩い、罪の重荷、死の恐怖から解放され、希望に満ちた人生を受け取ってください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
Migiwa:慈しみ深き

今日のみことば
すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
(マタイ11:28)