ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
先日、とても興味深い本を読みました。「書くだけで人生がうまくいく嫌なことノート」という本です。私たちは普通、嫌なことは考えないようにして生きていますよね。しかし私たちが避けている嫌なことの中に、人生を幸せにしてくれるヒントが、たくさん詰まっているんだということを言う本なんです。
この本では、福井商工会議所が運営するホームページ、「苦情・クレーム博覧会」のことが紹介されていました。消費者が日頃から感じているイライラを指摘してもらい、投稿してもらい、それを商品開発に役立ててもらおうとしていたんですが、これによって大ヒットが連発するんですね。たとえば雨の日に、混んだ電車の中で傘に着いた雨のために服や靴が濡れるのが嫌だ、という苦情に対して閉じた傘を一ふり振るだけで、完璧に水滴が落ちる傘が開発されました。一本三万円以上するのですが、生産が追い付かないというんですね。浮き輪で遊んだ後、片付けるのが大変、特に空気抜くのに時間がかかるのが面倒だという苦情に対しては、一気に排気できる浮き輪を作ってこれまた大ヒットなんですね。
実は、私たちが感じている嫌なことの中に、私たちを幸せにしてくれるものが案外秘められているのですよ、企業にとっては人々の不満こそはヒット商品のネタなんですよ、というんですね。実は聖書もこれと同じようなことを語っています。次のように書いてあるからです。
ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。
自分の造り主を無視して、自己中心で生きてきたことを罪だと認めて、神に立ち返るならば、罪は拭い去られて神とともに歩む新しい人生をスタートすることができるんだ、という約束なんです。ところが人はそれをしようとしません、何故なんでしょうか。
今日は3つのポイントでお話ししたいと思います。
タレント伊集院光さん
第1に、人は無意識のうちに自分を守ろうとして、自分の非を認めにくくなっている。すなわち自分の罪に気づきにくくなっているので、罪を悔い改めることができないというのです。
わたしの好きなタレントに伊集院光さんという方がいます。彼は高校受験に失敗し、近所であまり評判の良くない高校に行くはめになり、挙句の果てに引きこもって中退してしまうのです。引きこもりの最中に、立川談志の落語を聞いて、突如として落語家になる決心をします。しかし、ついた師匠は親せきのおじさんの知り合いで、楽太郎という方でした。自分以外に兄弟子が一人いるだけで、マンツーマンで丁寧に落語を教えてくださったのです。
ところが伊集院さんは、適当にギャグを入れて会場を沸かせるんですね。師匠が何回もそれをたしなめるのですが、「いや、うけてるんだから別にいいでしょう」とばかりに聞き流し、一向に改まらなかったのです。
そんなある日のこと、立川談志の落語のテープを師匠から渡され、「これを聞いてみな」というふうに言われるんです。話しは「雛鍔」という前座の若手落語家がやるやつで、伊集院さんの持ちネタでもあったんですね。「なんだ、こんな初心者向けの話し」と思って聞いてみたら、まるで別物だったそうです。お屋敷のおぼっちゃまと貧乏長屋のせがれの違いを、面白おかしく語る内容なのですが二十歳そこそこの談志の落語はギャグなんか一切なし、ただ言葉と間だけです。貧しい親と子のどうしようもない悲しみを語って行きます。
無意識のうちに自分を騙す
これを聞いた伊集院さんはショックを受け、一生かけてもこの領域にはたどりつけないと観念し、落語家をやめてしまうんです。そして当時、片手間でやっていたラジオ番組一本に絞って、やがて注目されるようになるんですが、後日そのラジオ番組に談志師匠をゲストで招くのです。そして、自分が落語を断念したのはあなたの落語を聞いたからです、ということを言うんです。
ところがそれを言われたとき、談志師匠は「いい理由が見つかって良かったな」と言ったんです。「いや、おまえさんは無意識のうちに、いやおまえさんはもともと、自分の落語に限界を感じていたか、何かストレスがあって辞めたいと思っていた。そんなときに上手な落語を聞いて、やめる口実を見つけたんだけど、自分から弟子入りしておいて嫌になったからやめます、っではこれは世間が通らない。だから自分で被害者にすり替えて、こんな才能を見せつけられてダメになったんです、というふりをしていただけだ。
自分自身で気がついてないかもわからないけど、自分が非難されないように俺の落語のせいにしていただけだ」。聞いた瞬間、「あーぁ、そのとおりだった」と分かったというのです。
人間はなんと無意識のうちにも自分が非難されないように、自分の心まで騙して立ち回るのか、と愕然としたというのですね。でもこれはすべての人の中にあることではないでしょうか。
非を認めたら最後と考えてしまう
第2に、人が自分の非をなかなか認めようとしないのは、認めたら最後、悪いことが起こると考えるからです。
謝ったら責任追及が始まって、とっちめられてしまう。不利になると考えるんです。そこで何があっても自分の非を認めないわけです。しかしそれをやればやるほど、周りの人はその人から離れていきます。なぜなら自分もまた同じことを、この人にされるんではないかと、警戒されるようになるからです。
悔い改めのない自己主張の生き方は、孤独への道なんですね。
悔い改めの先に恵みがある
第3に、悔い改めて自分の罪を正直に認めるところに、神の恵みが働くということです。
ベトナム戦争帰りの海兵隊員にネルソンという人がいました。彼は20代で幾つも勲章をもらう勇敢な兵士でしたが、アメリカに戻ってからPTSDになり、夜中に大声でうなされたり、暴れたりするようになってしまうのです。
とうとう家族からも家を追い出され、ホームレスになっていたところ、昔のクラスメートとばったり会うんです。友人はスラムの小学校で教師をしていました。「私のクラスに来て、戦争経験を話してくれないか」と頼まれたネルソンは、気が進まないままに戦争経験を話したのです。しかし表面的な一般的な話だけでした。
すると聞いていた小学2年の女の子が質問するんです。「あなたは人を殺したことがありますか」、教室は静まりかえります。もしここで彼は「そんなことはしたことはない」と言えば、彼は戦場の悲惨さを隠すことになります。しかしここでYESと言えば、ネルソン先生から、殺人者ネルソンに身を落とすことになります。生徒たちはみなドン引きすることでしょう。
しかし彼は何者かに背中を押されるように、YESと言うんです。この瞬間、この女の子が彼のところに行って、小さな手で彼を抱きしめ「かわいそうなミスターネルソン」と言って泣き出したのです。かわいそうなのは彼によって殺された人だけではなく、ネルソン自身がかわいそうだと言ったのです。
実に罪人は自分が犯した罪のせいで、ひどく人生を狂わされていく、ということを彼女は指摘しているのです。この罪人を憎しみのまなざしではなく、いつくしみのまなざしで抱きしめた少女のように、神は悔い改める者の罪を拭い去って、慰めてくださる方なのです。罪人に対して限りなく優しい方です。
どうぞあなたも罪を悔い改めて、イエス・キリストのもとに立ち返ってください。心からお勧めいたします。
(使徒3:19)