ごきげんいかがですか。那須清志です。
いつも「創造主の救いの計画」や「イエス・キリストによる救い」を紹介しています。すべてのものを造られた創造主は、祝福を得るために契約を交わしませんか、とあなたにいつも呼びかけています。
今日は、その救いを得るのは「いつでも、どこでも、だれにでもできる」ということを考えていきましょう。
いつでもできる
まず、「いつでもできる」です。
人間が神の救いを得るのは、自分が神の前に不完全で、罪の状態にあるということを認めるときです。これは子どもでもできますし、年配の方でもできます。極端に言えば、死ぬ間際でも間に合うのです。もし、この救いを得るために態度を改めた生活をしなければならない、善行を重ねなければならない、というのであれば、間に合わないとか時間がないということもあるでしょう。しかし、この救いは私たちの行いによりません。であれば、私たちが何かをする余裕がなくても間に合うのです。「いつでも、今でも」受けることができるのです。神がイエスを通して用意された救いは、受け取るだけですべての効力を発する完成されたものです。完全な薬は、他の薬と併用する必要はありません。信頼してそれだけを飲めばいいのです。イエスの救いは「信じて受ける」だけです。私たちがジタバタする必要はありません。
ただし、私たちのこの地上の生涯を終える前までです。聖書は「死は肉体と霊が分離すること」と説明しています。人は死ぬと、肉体はいのちを失うのでだんだん腐敗していきます。最後には分解されて土になります。霊は神の元に帰っていきます。そのとき、イエスの救いを持っている人は、罪赦されているゆえに天に迎えられます。罪をそのまま持ち続けていたならば、清い天国に入ることができません。私たちがこの地上にいる間に、自分の霊の行く先が決まるのであって、肉体と霊が分離してからでは遅いのです。救いは「いつでも」受けることができますが、「いつまでも」時間があるのではありません。私たちは明日のいのちもわからないものです。「今日」と言われるときに救いを受けることを勧められるのはそのためです。そして、生きているあなたが望むならば「いつでも」救いを受けることができるのです。
どこでもできる
次に、救いを得るのは「どこでも」ということです。
あなたが今、どんな状況に置かれているのか私にはわかりません。しかし、神はご存知です。自動運転装置で、地上のあちこちを走る車を安全に走らせる技術がどんどん進歩しています。まして、神はすべての人の心をご覧になられ、適切にアドバイスできる方です。
共に聖書を学んだり、励まし合ったりするのに同じ信仰を持つ者たちとの交流は重要です。しかし、救いを受けるのに他の人の助けが絶対必要というわけではありません。これは神とあなたとの関係です。目に見えなくても、周りにだれもいなくても、あなたの魂の親である神はあなたと関わりを持てます。あなたのそばにおられ、祈りという形であなたとやり取りすることができます。その場所にいながら神を信頼できます。まさに「どこにいても」大丈夫です。この救いは魂の救いだけにとどまりません。この地上の歩みにおいても、さまざまな問題や困難の中で救いを見ることになります。八方塞がりの状況でも目を上げてください。横は閉じられていても、上は開かれています。病や思い悩みで床に伏し、動けず、体は不自由でも、心はつながれていません。あなたの心でイエスを信頼するならば、この地上において、イエスは最高のアドバイザーとして、地上の生涯を終えるときには神の元へ導いてくださいます。あなたは「どこでも」神の救いを味わうことができ、どこでも神の導きを経験することができるのです。ただ、神はあなたをロボットのように操りたいと願っているのはありません。あなたの自由意思を尊重されます。あくまでもあなたと共に、あなたの願いを支える形で助けてくださいます。
だれにでもできる
最後に、救いは「だれにでも」ということです。
これは、愛なる神がすべての人を天国へ連れていってくれる、という意味ではありません。神の国に罪の入り込む余地はありません。不義を行った人間が清い神の元で永遠を過ごすことはできません。人は義なる神の目から見て公平かつ完全な裁きを受けることになります。死後の世界や裁きをイメージしている人は「良いことをしたら天国、悪いことをしたら地獄」のように考えるのが大半でしょう。しかし、突き詰めて考えると、どれほど良いことをしたら合格で、どこまで悪いことをしたら天国に入れないのか…、という問題にぶつかるのではないでしょうか。ある宗教では「その基準はだれにもわからないのだから死ぬまでいいことをし続ける」と説きます。それに対して聖書は次のように言います。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず…」と。
神を見失い、不完全な状態になってしまった人間の罪を処分しようと神は計画されました。愛なる神は罪を認め、悔い改めた者に赦しを与えたいと願っておられます。今考えている「だれにでも」というのは、人は自分の不完全さを認め、神の前に出るならば「だれにでも」罪の赦しを得ることができるという意味です。
もちろん、自分が不完全だという意識の深さは人によって違うでしょう。年齢の違いというよりも個人によって差があり、自分の弱さを強く感じている子どももいれば、あまりピンと来ていない年配の方もいます。しかし、この救いは、罪深さを知る度合いとは関係ありません。所詮、人間は自分が神や人に対して行った罪のすべてを知ることはできませんし、人からされたことは忘れなくても、自分がしたことは忘れがちです。聖書に次のようにあります。
もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
私たちは「告白した罪」を赦されるだけでなく。それに加えて「すべての不義からきよめ」られるのです。イエスは十字架によって私たちが犯した罪の裁きを身代わりに受けてくださいました。それは「私たちが告白した罪」だけではありません。すべての罪です。ピンときていなかったとしても、また忘れてしまった罪も、神の目から見て正しくないと判断されるすべての不義から私たちを救うと約束してくださったのです。
人を変える救い
オランダ人のコーリー・テン・ブームという人は、多くのユダヤ人をナチスから匿ったことを密告され、強制収容所に入れられました。劣悪な環境で、両親と姉は収容所で亡くなりました。彼女は奇跡的に行き延び、戦後「キリストの救い」を世界中で語ったのです。ある時、ドイツに行くことになりました。敗戦を通して、悩み苦しみ、罪責感に押しつぶされそうになっていた多くの人々は神の赦しのメッセージに大きく反応しました。話の後で多くの人が握手を求めてきたのですが、コーリーはそこにかつて収容所で自分を裸にし、拷問した兵士を見たのです。思わず彼女は祈ります。 「主イエスさま、私はどうしてもこの男を赦すことができません。どうか私を助けてください」その時、イエスの語りかけを聞いたと言います。「わたしが、わたしを十字架に釘づけた人を赦したことを、あなたは知っているでしょう?また語ったでしょう?…」彼女は重くなった手を差しのべ、その男と握手しました。まさにその瞬間、神の愛が豊かに注がれました。神の愛が全身を覆い、彼女は涙を流し、心の底からその男を赦すことができました。彼女は自分の体がまるで十年も若返ったような気持ちがしたそうです。
「いつでも、どこでも、だれにでも」与えられるイエスの救いを受けたとき、人は変えられます。自分の何かではなく、知恵と力と勇気が与えられます。是非、あなたも今、この救いを受け取ってください。心からからおすすめいたします。
(Ⅰヨハネ1:9)