ごきげんいかがですか。三綿直人です。
さて、世界一有名な町工場のリーダー、宇宙開発事業の革命家と呼ばれている有名な方に植松勉さんという方がおられます。
北海道の片田舎で20人少しの社員を率いてるんですが、NASAの一線級の研究者たちがぞくぞくと彼の造った実験施設を見学に来て、彼にいろいろとインタビューするそうで、ドラマ「下町ロケット」の北海道工場のモデルにもなったそうです。
その彼が現在力を入れている活動が、児童虐待撲滅活動だというんです。背景には、植松さん自身が小学校の頃、先生から受けたいじめ、にあるそうです。
小学生の頃から宇宙が大好きで、宇宙開発の仕事がしたいと言っていた植松少年を理解せず、ばかにし、のけ者にしたのがなんと学校の先生だったっていうんですね。
「そんな夢みたいなことばっかり言ってないで、まずは勉強して有名な大学に行ってからじゃないか。そもそも宇宙開発なんてものは国家事業プロジェクトでするもんだ。」という常識を振りかざして、彼を随分と苦しめたそうです。
そんな彼の小学校時代の友人は、エジソン、ファーブル、アインシュタインなど学校教育からはじき出された伝記の中の人だったそうです。結局彼は、全く別の道から宇宙開発をするようになり成功者となるんですが、当時のことを振り返ってこう言ってます。
「いじめや児童虐待をする人は自信のない人です。自信のない人はどうせ無理、現実を見ろ、と言って他の人の希望を奪います。自分が挑戦したことのない人がどうせ無理、と言うのです。反対に自分が挑戦し、経験し、できた人は、子どもに、君もできると言ってやれます。」と。
人生の希望
確かに、子どもは希望を胸に生まれてきますね。しかし、人生のどこかで希望は奪われてしまっているんではないでしょうか。大人の諦めによって、子どもの希望が奪われ、諦めが社会に蔓延しているとすればとっても残念です。
翻って、あなたはいかがですか。今も人生に希望を持っておられますか。子どもに人生はすばらしい、と励ましておられますか。
さて、聖書の中にこんなことばがあります。
かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。
聖書は私たちに希望を持ち続けるように励ます書物です。諦めと絶望が蔓延する世界で聖書は人生はすばらしい、と語るのです。あなたに忍耐と励ましを与えて、希望を持ち続けることができるようにするというのです。この聖書箇所から聖書が与える忍耐について、そして聖書が与える励ましについてお話しましょう。
聖書が教える忍耐
まず、聖書が与える忍耐についてです。
スペインのクリスチャンにルイス・デ・モヤという人がいます。彼はいろんなところに出かけて行って、聖書のお話をする伝道者なんですが、37歳の時に交通事故に遭い、首から下が動かなくなりました。それ以降、車いす生活です。
しかし彼は仕事をやめませんでした。それどころか、首を動かすとカーソルが動き、息の力でクリックできる特殊なパソコンを用いて、本を出版、大学で講演、テレビにも出演し、人を励ます聖書メッセージを届け、事故以前よりも精力的に活動しておられるんです。
忙しく、疲れているだろうにいつも穏やかな彼にある新聞記者がインタビューしました。「あなたは事故で身体が不自由になったでしょうに、どうしてそんなに明るく希望を持って生きていられるんですか。」
ルイスさんはこう答えました。「事故で失ったものはたしかにあります。でもそれは億万長者が千円を落としたようなものです。」
名言ですね。億万長者は千円失ったぐらいでジタバタしません。聖書が語る忍耐は、単なる我慢とは違います。千円失ったけど、我慢するというのではないんです。我慢とは失ったものを見てそれでも頑張ろうとすることです。しかし、ルイスさんは失ったものを見たのではなく、与えてくださる偉大な神を見て、自分は大丈夫だと言っているんです。
これが聖書の語る忍耐です。聖書の神は偉大な神です。人は宇宙の全貌がわかりませんが、その宇宙をお創りになった方が神です。いのちを創り、支え、養っておられます。人間が作った神々は人間より力がありません。人間がお世話し、人間が支え、人間が養わなければなりません。
そのような神々がどうして人間が絶望し、力を失ってる時、励ますことできるでしょうか。人間を造った神こそ真の神であり、人間に力を与える方です。
聖書が教える忍耐とは、我慢ではなく、この偉大な神に支えられて歩む生き方です。億万長者よりも力のある、いのちの造り主、不可能がない方、この神によって支えられる人生こそ、希望を持ち続けることのできる人生なのです。
聖書が与える励まし
二つ目に聖書が与える励ましについて考えてみましょう。
聖書が与える励ましは、単なる応援やエールではありません。ここの聖書で励ましと訳されているギリシャ語は、パラクレイトスという言葉です。直訳すると、あなたの横にいて、あなたを助ける援助者、です。
次男が昨年12月から、習い事を始めました。我が家は習い事は親が決めません。自分がやりたいということをやらせる方針なんです。
ピアノは、水泳は、習字やそろばんもいいよ、公文はどう、塾も行っていいんだよ、と言っても、いっこうに行きませんでした。しかし、小学校三年生になって初めて、子どもの方から、この習い事に行きたい、と言ってきたんで体験学習に行かせたんです。すると、目を輝かせて帰ってきました。
「とっても楽しかった。2時間が3分のように感じた。」と大興奮です。「何が楽しかったの。」と訊くとこんな風に説明してくれたんです。
「学校の授業ではね、問題がわからない子がいると先生が、お助け~って言ってわかる人に答えをきくんだよ。そしてわからなかった子に、わかった、って訊くんだけどその子がわかった、と言って座るんだよね。でもね、僕に言わせるとその子は本当にはわかってない。だって答えを聞いただけだよ。でもこの習い事の先生は僕がわからないって言ったら、横に来てくれて、ヒントをくれて、こうやってみたらと言って自分でできるように助けてくれるんだ。だからすっきりして、とってもうれしいんだよ。」
子どものこの話を聞きながら、聖書の神が与える励ましはまさにこれだ、と思いました。人生、神にお任せ、あとはよろしく、ではありません。あなたの人生を尊重し、あなたのそばにいて、あなたが助けを求める時援助し、あなた自身があなた自身の人生を解決できるように導く、これが聖書が語る、励ましです。
この神がおられるということこそ、希望です。偉大な、生ける、力ある神がおられます。それだけでなく、あなたをこよなく愛して、あなたのそばにいてあなたを援助する神がおられます。
この神と共に歩む人生は、希望を奪われず、持ち続けることのできる人生なのです。人間の最大の問題である死ですら、完全解決を与える神です。この神を信じてください。心からお勧めします。
(ローマ15:4)