#1213 ことばなるイエス・キリスト

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。尼川匡志です。

先日、ウクライナ支援に奔走しておられるある方のお話を聞いたんですね。袋に支援物資を詰め、必要な人々に届ける働きをされているんです。非常にハードな働きだと思います。その袋の中に、ヨハネの福音書を入れていると言われていました。物資はもちろん必要ですが、同時に「傷ついた心を癒やし潤す神のことばも欠かせない」とおっしゃっていました。ヨハネの福音書の書き出しはこうです。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」このことばとはイエス・キリストのことを指しています。ことばとは、どういう意味でしょうか。いくつか考えられますが、イエスは神の御心を人間に正しく伝えるためのことばだと考えているんですね。
聖書は旧約聖書が39巻、新約聖書が27巻の合本です。旧約聖書に神の愛はもちろんあふれています。しかし新約聖書のイエス・キリストのことばや行動を見るとき、神という方がどれほど人間一人ひとりを愛してくださっているのかが、詳しく見えてくるんですね。そのことを考えてもイエスとは、ことばなる神であると言えると思います。
今日も三つのことから考えてみたいんです。テキストはマタイの福音書の8章の1節から4節、ツァラアトを患った人がイエスに癒やされるという記事から考えます。一つ目、ツァラアトの人についてです。二つ目、イエスの「わたしの心だ。きよくなれ」ということばについてです。そして三つ目、神からのメッセージを考えたいと思います。

ツァラアトの人

それでは一つ目、ツァラアトの人についてです。ツァラアトとは、当時の人々から恐れられていた皮膚疾患のことです。この病気の恐ろしいのは、感染力が強かったということもあるんですけれども、それに加えてこの病気が汚れていると考えられていたことにあるんです。ツァラアトの人が触れた人や物、またツァラアトの人に触れた人や物はすべて汚れると言われたんです。ですからこの病気にかかると家族や友人との接触が断たれてしまうんです。家を出て町も出て孤独な生活が強いられることになったんですね。道で人に出会ったら「汚れている、汚れている」と大声で言わなければならなかったんです。愛する人たちとね離れ孤独に生きるだけでも辛いのに、大声で自分のことを「汚れている」と叫ばなければならなかったんです。ときには石を投げつけられることもあったようなんですね。このツァラアトは「罪」を象徴する病気と言われていました。それは、すべての関係が断絶され孤独を強いられ、からだが朽ちていくということが罪と似ているからなんです。
あるときイエス一行が山から下りて来たとき、ツァラアトを患った人が前でひれ伏していました。「汚れている」と言っていたかどうかは分かりませんが、一行は立ち止まったんです。ツァラアトと分かったからです。石を持った者がいたかも知れませんが分かりません。群衆は罵声を浴びせかけたでしょう。その中を変わらずに歩き続ける人がいたんです。それがイエスです。人々は当然止めました。しかし何もないかのように、いやその人に引き寄せられるようにイエスは進んで行かれたんです。そして前で立ち止まられました。その人は言いました。「お心ひとつで私をきよくすることがおできになります」メシヤ以外には癒やすことのできない病気、それがツァラアトでした。この人はイエスをメシヤだと信じていたことが分かります。次の瞬間全員が凍り付いたんですね。なんとイエスが手を伸ばし彼に触れられたからです。あり得ないことでした。誰もが、この人の汚れがイエスにうつると思いました。しかし全く逆でした。イエスのきよさがこの人に伝わり、ツァラアトが癒やされたんです。

「わたしの心だ。きよくなれ」

二つ目、「わたしの心だ。きよくなれ」ということを考えたいと思います。この人が何年この病気で苦しんでいたのかは分かりません。しかし愛する家族から離れ、希望もなく孤独の中に閉じ込められていた心の痛みは誰にも分かりませんでした。群衆はののしり石を取りました。しかし、もしその人が自分だと考えるならばどうでしょうか。その人の愛する人ならばどうでしょうか。誰もが自分と切り離して関係のない者として考えていました。でも、この人の心すべてをご存じの方がおられたんですね。イエスです。どれほど心が痛みどれほど悲しい日々を過ごしてきたのか、その思いをまるで自分のことのように感じ痛まれる方、それがイエスだったんです。イエスは手を伸ばされました。それはこの人に触れずにおれなかったからです。治すために手を触れたのではありません。温もりを伝えたかったんですね。そして言われました。「わたしの心だ」と。イエスの心は彼に伝わっていったと思います。イエスの手から愛が伝わっていったと思います。この人はとめどなく涙があふれたんじゃないかと思うんです。人間の温もり、いや神の温もりが、まるで荒れ地にしみ込む雨のようにしみ込んでいったと思います。

神からのメッセージ

三つ目のことです。神からのメッセージを考えたいと思います。神は愛なる方であるということを私たちはよく知っています。でも、自分がこのツァラアトの人のように「汚れている」と言われたらどうでしょうか。また、自分の性格がゆがんでいたら、過去に大変な罪を犯してしまったら、能力に欠けていたらどうでしょうか。神は私を愛してくださるだろうか。分からないと思うんですね。私に神の愛は届かないんじゃないか。そう思ってしまうと思います。しかし、神の愛はそうではないんです。イエスのことばと行動を見れば、それがよく分かるのではないでしょうか。
イエスの誕生を最初に知らされたのは、エルサレムの王ではなく野宿している羊飼いでした。弟子に選ばれたのは、律法学者やパリサイ人ではなくガリラヤの漁師だったんです。育たれたのはナザレという寒村で、宣教のスタートは異邦人のガリラヤと言われた場所でした。エリコの町で宿泊されたのは、取税人のかしらザアカイの家だったんです。姦淫の現場で捕らえられた女の人の横で、ことばもなくその女性よりもくずおれておられた方がこの方です。イエスは貧しい人、不遇な人、嫌われている人、傷を負っている人、痛んでいる人に寄り添われたんですね。これがイエスという方なんです。
このイエスから伝わってくるのが神のメッセージですね。あなたはこの神のメッセージを聞いておられますか。あなたに語られている神のことばなんです。
ことばなるイエスから、この愛にあふれたことばを受け取ってください。心からお勧めしたいと思います。


使用CDジャケット
国分友里恵:みことばなる

今日のみことば
イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
(マタイ8:3)