ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
さて、とある老舗の蕎麦屋さんが蕎麦打ち職人を募集したそうです。「創業120年愛され続けた伝統のお店です」と広告を打ったんですね。応募者はゼロでした。次に「県外からのお客さんも多い人気のお店です」と広告を打ちました。またしても応募者はゼロです。3番目に「1日中誰とも話さなくていい仕事です」50人近い応募があったそうです。転職を検討する多くの方々は、人間関係に疲れておられる方が多いようですね。なので、不必要に誰と関わる事もなく人間関係に苦しまなくてもよいという点が、この人たちの心を掴んだんですね。
人の必要を的確に満たす言葉には、力があるんですね。ところで聖書は、人間の魂の必要を誰よりもご存知である神の言葉です。ある時キリストがこのように仰いました。
「人の子も仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の贖いの代価として自分の命を与えるために来たのです。」
ここから神の本質とキリストの使命について3つのポイントで考えましょう。
人に仕える創造主なる神
第1に、この世界を作り維持しておられる神は、人に仕える方であるということです。神は今に至るまであなたを守り、支え、仕えてこられました。その証拠は、あなたが今生きているということです。「いや別に神の世話になった覚えないけど」と言われるかもしれませんね。
昨年私は、東京オリンピックのサイバー攻撃防衛に関わる方とお話をしたのです。実は昨年の8月、何事もなく無事に終わったあの東京オリンピックは、期間中4億5000万回ものサイバー攻撃を受けていたというのです。あのとき観客はゼロでしたね。ということは、観戦チケットの払い戻しがあったんです。そのチケット代金をごっそり盗み出すためのサイバー攻撃が仕掛けられていたんですね。いや、それ以外にも映像を観れなくするようなサイバー攻撃もありました。もし観たければ代わりに金を払えという事なのでしょう。しかし私たちはこのような舞台裏を知らないので、何事もなく普通に始まって普通に終わったと思ってます。実際は4億5000万回のサイバー攻撃に対し、4億5000万回の防御を成功させていたので、見かけ上なんの攻撃も受けていなかったかのように思っているだけなのです。
これは人生においても言えることです。私たちが今まで生きてこれたのは、生かされてきたからです。神は目に見えないところで今の今まであなたにチャンスを与え、生きるのに必要なものを備え、そして支えてこられました。しかし多くの人は無事にこれたのは、その背後に創造主の守りがあったということになかなか気が付かれていないと思います。なぜ気が付かないのでしょう。そもそも神などいないと考える方が多いからだと思います。しかし神は、神を無視する人間のためにも日々見守り、守りを与える方なのです。まさに神の本質は仕えるというところにあるんです。
神はこの世界に人となって来られた
第2に、その偉大なる神は人間の世界に人となって来てくださいました。それがイエス・キリストです。キリストは仕えるために来たのですと言われたのです。つまり神の在り方を捨てて、この地上に来られた仕える神。それがイエス・キリストというお方なのです。
ある方が中学時代の思い出を書いていました。クラスに1人、不登校の生徒がいたんですね。ある時担任の先生が彼を含む3人組に「おい。明日の朝、あの不登校の子の家まで行って、声かけをしてやってくれないか」と頼まれたのでした。次の日3人組で彼の家に行くと、なんと嬉々として釣りに行こうとしてるではありませんか。3人組はどうしたでしょう。あろうことか彼と一緒に釣りに出掛けてしまったんですね。驚いたのは担任の先生です。欠席の理由も告げられることなく、3人が来てない。夕方になって事情を知った先生からこっぴどく叱られたんです。「ミイラ取りがミイラになってどうするんだ」ってまぁ怒鳴り散らされたんですね。ところが、次の朝、何ヶ月も不登校だったクラスメイトが自分で登校していたのです。そしてそれ以来1度も休むことはなかったというのです。授業をさぼって一緒に釣りに行くというのは、確かに褒められたことではありません。しかし少年は釣りに付き合ってくれる友人が3人もいたんだということに気づき、そこに励ましを受け、そして心が癒されていく大きなきっかけとなったのです。
愛を伝えるのに1番良い方法って何でしょう。一緒に時間を過ごすということなのです。寄り添うことです。神はなぜ人となってこの世界に来られたのでしょう。寄り添う神であられること、それをキリストの生涯を通して人々に示すためであったのです。
目的は贖いの代価としていのちを与えるため
第3に、キリストが来られた目的は贖いの代価としてご自分の命を与えるためでした。ところで、贖いとは市場で奴隷を買い取るというニュアンスがある言葉なんです。もしあなたが奴隷なら、あなたは人間扱いされません。台の上に乗せられて知らない人に売られていくのです。そしてその知らない人を買い取る人がどんなに無慈悲な人で、そしてあなたはその人に買い取られる事を望まなかったとしても、あなたにはそれを拒否する権利がないのです。奴隷とはそういうものです。聖書によるとすべての人は罪の奴隷、死の奴隷だと書いています。罪を犯したくないと思っていても犯さずにはおれません。死にたくないと思っていても、死から逃れることはできません。まさに罪と死の奴隷状態にあるのが人間なのです。
ところで、奴隷の販売は競り市というシステムでやります。1番値段の高い人が買い取ることができるのです。競り市ですから、どんどんどんどん値段が釣り上がっていきます。そしてもうそろそろこの辺が最高値だろうと思われたその時、1人の紳士がすくっと立ち上がって、それまでの最高値の1000倍の値段を言ったらどうなるでしょう。みんな人は驚いて、その紳士を見ることでしょう。そして奴隷商人は、その人物の気が変わる前に話をまとめようとして確定の宣言をするのではないでしょうか。
あなたは誰も付けたことがない天文学的な代価で買い取られました。その紳士はあなたを奴隷にするためではなく、あなたを自由にするためにご自分の命という代価を払われたのです。その紳士とはキリストです。キリストはあの十字架にかかってたった一つしかない罪のないご自分の命を、あなたの買い戻しのために支払ってくださったお方なのです。この十字架のうえにかかって死んでくださった方、そして3日目に復活した救い主、それがイエス・キリストです。どうぞこの神の本質そのものであるイエス・キリストをご自分の救い主として、今日、いま、受け入れてください。心からお勧めします。
(マルコ10:45)