#1143 これぞ神の本質 ー恵みー

メッセンジャー似顔絵

ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。

ところで世界最大の運送会社にフェデラルエクスプレスという会社があります。世界200以上の国々で営業し、600機以上の輸送用航空機を持っている会社です。創業者のフレッド・スミスの頭の中には、この会社の構想がかなり早い段階からありました。彼は大学生の頃、経済学のクラスでその原案となる内容をレポートとして提出しています。しかし、教授から下されたそのレポートに対する判定はC判定なんですね。つまり、ぎりぎり合格。しかしフレッドは教授の判定を無視して、迅速に荷物を配達するシステムを完成させました。今や、世界ナンバー1の航空運送会社となりました。彼が大学時代に書いたレポートは今もフェデックスの本社に飾られてあるといいます。今まで誰もしたことがないことや、今までの常識を打ち破るものであればあるほど、それを正しく評価できる人は少なくなりますね。しかし、正しいことは、やはり正しいのです。
聖書には人間の発想では出てこない、神の救いを語っています。それをひと言でいうならば、恵みによる救いなのです。良いことをしたので、良いものをもらえるというのではなく、罪人に対して神が一方的に愛を注いでくださることを恵みというんです。これは人間の常識を破るものですね。しかし、これが神の本質なのです。
聖書にこのようにあります。

すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。

今日はここから二つのポイントでお話しましょう。

すべての人は罪人

第一に、すべての人は神の前には罪人であるということです。
そう聞いてもなかなかピンと来ないのは自分なりに精一杯生きてきたからだと思うんですね。
ところで今から20年ほど前、アメリカのサウスダコタ州ラビットというところで、窃盗犯、泥棒が、逮捕されました。デニス・リー・カーチスという人物です。彼の財布を警官が調べてみると、中から一枚ペーパーが出てきたんですね。その紙には彼の泥棒としてのモットーが記されていたのです。「一つ、人殺しは絶対しない。二つ、盗るのは現金とフードスタンプだけで、宝石は手をつけない。三つ、お年寄りがよく利用する店は襲わない。四つ、警官に追われた時には、車は使わず走って逃げる。車で逃げると事故で他の人を巻き込むから危険である。五つ、子どもの金には手をつけない。六つ、一回に盗むのは一万ドル以下にする。七つ、狙うのは金持ちからだけで、一部は貧しい人たちへの施しに使う。等々」彼は十の戒めを自分に課して盗みを働いていたのです。
つまり彼は自分なりに良心的に生きていたんです。そしてそれは彼のプライドとなっていました。自分はそこらのこそ泥とは違う、りっぱで高潔な泥棒であろうとしたんですね。しかし逮捕された後はそんな生き方は何一つ評価されませんでした。なぜならやっていることは、盗みに他ならないからです。彼は他の盗人と比べるとましな泥棒ですが、州の法律の前では弁解の余地なき犯罪者として裁かれたのです。これは極端な例かもしれません。しかし人間の持ってる義の基準は神の正しい正義の基準に照らした時、全く通じないんです。

キリストの犠牲という神の恵み

自分なりの正義はあくまで自分にだけ通用するものです。神の栄光の前では、胸を張って大丈夫ですと言える人など一人もいないんですね。
しかし、後半のことばで神の恵みが語られています。なんとキリストは罪人のためにご自分のいのちを犠牲にして、罪の赦しを勝ち取ってくださった、と語るのです。
ところで、オリバー・ストーンという脳科学者はある時、右の肩の手術をしました。回復するまで腕をつっていたんですね。それで右手が使えませんでした。
何が起こったでしょう。その期間、どんどん、どんどん左手が器用になっていって、文字を書くことができるようになり、また足で下にある物をつまみ上げることができるようになったそうです。彼はこう言っています。「からだはどこかに欠損が生じると、その弱さを補おうとして別の能力を発揮できるようになっている。弱いところに偉大な力が働くようになっている。つまりからだは弱さを補おう、補おうと常に働いている。いわば、恵みによって調和している。」というのです。

互いに助け合う

私は先日、モンゴル旅行に行かれた多摩川聖学院の安藤学院長のお話を読みました。この方によりますと、農耕民族の日本人と遊牧民族のモンゴル人では価値観や生活習慣に大きな違いがあるというのです。
特に印象的だったのは、モンゴル人は自分の一番のお気に入りの服、全財産を常に持ち歩いているというのです。日本では大切なものほど、家に置いときますね。ところが彼らは全部携帯していて、そして移動先でどうしようもなく困っている人と出逢うと、その時の全財産をあげてしまうっていうんです。そうすることによって相手は助かります。しかし相手の欠乏は自分が背負うことになりますね。そんなことをしたら、今度自分が困った時、手元に財産がないので大ピンチに陥るのではないでしょうか。
しかしそんな時には、次に出逢った人から、全部もらうんだそうです。砂漠に生きる遊牧民にとって、そうやってお互いを助けるっとことが当然なことであって、手元に貯蓄するということは何の美徳でもないと、いうことなのだそうです。

弱いところに救済を注ぐ恵み

ところでこの救済方法はお互いに与え合う、ということが土台となって成立している恵みですね。
しかし神は、私たちが何一つ神に差し出せるものがない時に、ご自分が持っておられるすべてを捧げてくださったのです。神はご自分のひとり子の神、キリストをこの世に遣わし、そしてキリストはご自分のいのちをあの十字架の上で完全に捧げ切ってくださったのです。
なんでそんなことをしてくださったんでしょう。弱いところに救済を注ぐ恵み、これこそは神の本質であるからです。すべての人は罪を犯して神の栄誉を受けることできません。しかし、神の恵みはあなたを満たし、あなたを強めてくださるんです。神はあなたに恵みで応じてくださる方なんですね。
どうぞあなたも、このキリストを信じて、神の恵みを受け取ってください。心からお勧めいたします。


使用CDジャケット
レーナ・マリア:Amazing Grace

今日のみことば
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
(ローマ3:23-24)