ごきげんいかがですか。高原剛一郎です。
今年2020年は、後から振り返った時、忘れられない年になると思います。新型コロナウイルスの感染拡大を抑えるために何か月も活動できない期間が続いたからです。私も例外ではありません。何しろ私がいるのは日本で東京に次いで感染者が出た大阪なんです。
ところが活動休止で、かえってすばらしい成果をあげた人が歴史上にはいるのです。アイザック・ニュートンという科学者です。彼がロンドンのケンブリッジ大学で学位を取得した頃、ペストの大流行が始まったのです。この影響で大学は封鎖されてしまうことになり、彼は大学の雑事から解放されました。そして故郷に戻って、一年半、大学で閃いていた着想について自由に考える時間をたっぷり得ることができたのです。そしてこの休息の時間に微分・積分学、工学、万有引力の法則の発見という、三大業績を成し遂げてしまうのです。
この時ニュートン25歳。休みの期間に研究に没頭したことで、人類史上に燦然と輝く成果を生み出したのです。ところでニュートンの後半生は、自然科学よりも専ら聖書研究に費やされたということは、あまり知られていません。
今日は日曜日ですね。多くの方にとって休日だと思います。どうぞこの休日を活かして、晩年のニュートンが没頭したバイブルについて、考えていただければとてもうれしく思います。
最後の晩餐
さて、聖書の中に、食事の場面がよく登場するのです。なかでも有名なのは、最後の晩餐です。キリストが十字架にかかる前日の夜のこと、親しい弟子たちだけを集めたキリストは、パンを割き、そしてぶどう酒を回し飲みになさるのです。ワインの入った杯を持ちながら、キリストはこう言われました。
これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。
ここから三つのポイントでお話しましょう。
罪の赦しが必要
第一に、多くの人、つまりすべての人は罪の赦しを必要としている罪人である、ということです。
ところで聖書の語る罪とは何なんでしょう。それは、神を神として認めないで生きることです。私はクリスチャンです。ですが、正直言うと、自分の性質の中に神を神として認めたくないと思う傾向があるのを、認めざるを得ないのです。神を神として認めるということは、私が何をすべきか、私以上に知っている方がいるということを認めることです。そしてその方に、私がすべきことを私に要求する権利があるということを、認めることなのです。
例えば私は自分に対して、乱暴を働いたり、無礼な扱いをする人がもし困っているのを見たら、それを知っていても助けたくありません。助けたくないどころか、心の中で自業自得だ、とか、いい気味だ、とうそぶきたくなるのです。ところが、助けるべきだ、という神の囁きが良心の声となって私に語りかけてくるのです。
そういう時私は苦しくなるのです。神を神と認めることで、自分の都合が悪くなる時、私は神を神として認めたくなくなるのです。そのような傾向が自分の中にあることに気づく時「ああ、私はなんて罪人なんだ。」と嘆かずにはおれないのです。そして罪の赦しを求めずにはおれなくなるのです。
赦しのための契約の血
第二に、キリストが十字架の上で流された血には、私の罪を赦す力がある、ということです。
去年の10月4日、タイのヤラー県という地方自治体の裁判官が法廷で被告人たちに対して無罪判決を言い渡した後、驚くべきことをしたのです。なんと自らを拳銃で撃ったんですね。法廷は血だらけになり、騒然となったのは言うまでもありません。一体何があったんでしょう。
五人の被告人は全員、イスラム教徒の男性たちで、殺人罪に問われていたのです。しかし、裁判官のカナーコーン氏はこの五人を調べた結果、十分な証拠はないとして、無罪宣告したのです。実は仏教国タイの南部では、マレー系のイスラム教徒たちがタイからの分離独立闘争を仕掛けているのです。そして武装組織を立ち上げ、今やタイの特殊部隊と激烈なバトルを繰り広げているのです。治安当局は、イスラム教徒の男性とみるや片っ端から拘束し、暴力的な取り調べで自白を強要し、裁判所に送り込むのです。そして残念なことに、裁判官も十分な証拠もないのに、次々と有罪判決を乱発してきたというのです。
しかし、カナーコーン裁判官は、法の番人としてこのことを見過ごしにはできなかったのです。おそらく彼が無罪判決を下しても、上級裁判でひっくり返されるのは目に見えています。しかし、どんなに人々の期待を裏切ることになっても、やってないことはやってないし、白は白、無罪は無罪なのです。彼は有罪の同調圧力を断固として跳ね返すために、自分の意思の強さを明らかにするために、ピストルで自分の胸を撃ったのです。裁きを下す裁判官が死ぬことで、不正な同調圧力を封じ込めようとしたのです。
幸い彼は一命をとりとめました。しかし、私はこの事件を通して、イエス・キリストのことを思わずにはおれません。キリストは無罪の者を無罪と主張するためではなく、神の前に、有罪の者を無罪にするために、ご自分のいのちを捧げ、あの十字架の上で血を流してくださったのです。これは多くの人の罪を赦すためのわたしの契約の血です、というその意味なのです。
キリストの愛
第三に、キリストはあなたを愛して、十字架の上で死なれ、墓に葬られ、三日目に復活してくださったのです。
この最後の晩餐の儀式は、今でもクリスチャンたちによって守られ続けています。それはこのキリストの犠牲が、愛によるものだと教えられているからです。
ところで、健全な人間関係ってどんな関係だと思われますか。自分の心を満たし、相手の心も満たす関係だと私は考えています。相手が喜んでいたら、自分もうれしいし、自分が喜べば、相手もうれしい。これは健全な関係ですね。しかし、相手を喜ばせるために自分は我慢し、苦々しい思いを強いられ続けるとするならば、それは、いびつな関係だと思うのです。キリストにとって十字架は苦しみの極地でした。しかしこの苦しみを選んでいく時のキリストの心は、我慢ではなく、強いられたのでもなく、自発的使命感とあなたに対する切実な愛によるものであったのです。私はこんな人格を、キリスト以外で見たことがありません。偉大過ぎる方です。
どうぞあなたも、キリストのいのちに与かるために、キリストの招きに応えてください。この方を救い主として信じてください。心からお勧めいたします。
(マタイ26:28)